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(254)後鳥羽天皇

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登場人物:後白河法皇、惟明親王、尊成親王(後鳥羽天皇)、浄土寺の二位殿・高階栄子、藤原殖子、平時子、能円法印、範光

 後白河法皇は、安徳天皇が外戚の平家に捕らわれて西海の波の上を漂っていることを大いになげきました。三種の神器と共に安徳天皇を安全に都へ還すよう西国に命じましたが、もちろん、平家は聞く耳を持ちません。高倉上皇の皇子は、安徳天皇のほか3人いました。中でも二の宮・守貞親王は、平家が皇太子に立てようと西国へ連れて落ちていました。三の宮、四の宮は都にいました。

 寿永2年(1183年)8月5日、後白河法皇は、三の宮と四の宮を呼びました。

 後白河法皇はまず、5歳になる三の宮・惟明親王をそばに寄せました。「この子はどうだ」と口にすると、惟明親王は泣いてむずかりました。そのため、後白河法皇は「早く、早く」と言って連れ出させました。

 次に、四の宮・尊成親王(後鳥羽天皇)に「この子はどうだ」と声を掛けると、尊成親王はすぐに後白河法皇のひざの上に乗り、なつきました。後白河法皇は、「縁もゆかりもない者がどうして、この老法師を見て懐かしく思うだろうか。これぞまことのわが孫。故高倉院の幼いころにそっくりだ。これ程の忘れ形見に今まで会ったことがなかったとは」と、涙を流し続けました。その時はまだ丹後殿と呼ばれ御前に伺候していた浄土寺の二位殿・高階栄子が「さて、皇位はこの宮ということで」と確認すると、後白河法皇は「もちろんだ」と告げました。前もって占いを行った際にも、「四の宮を皇位に就かせれば百王までも日本国の御主たるべし」との結果が出ていました。

 四の宮・尊成親王の母は、内裏の修理造営を司る修理職の長官の藤原信隆の娘、七条院・藤原殖子。高倉天皇の中宮建礼門院の方に宮仕えしていたところ、高倉天皇が頻繁にお召しになり、子どもがたくさん生まれました。父の信隆は娘が多く、なんとかしてその中の一人を女御や后に立てたいと思い、白いニワトリを1000匹飼った家からは必ず后が出ると聞けば白いニワトリを1000匹飼いました。そのかいがあったからでしょうか、娘の藤原殖子は皇子をたくさん産みました。そのことを信隆は内々うれしく思っていましたが、平家を恐れて、あるいは、中宮建礼門院に遠慮して、皇子を育てることはしませんでした。それを、平清盛の北の方である八条の二位殿・平時子が「よしよし、心配するな。私が育てて皇太子にしてやろう」と、乳母をたくさんつけて、育てていました。

 中でも、四の宮・尊成親王は、平時子の兄・法勝寺の執行・能円法印が養っていました。能円法印は、妻も四の宮も都に捨て置いたまま、平家に連れられて西国へ落ちていました。しかし、能円法印は西国から人をよこして「四の宮を連れて急ぎ参れ」と伝えてきました。能円法印の妻はたいへん喜び、四の宮を連れて西の七条まで出ました。その時、能円法印の妻の兄である紀伊守・範光が、「これはもののけがとりついて狂ったか。この宮の運は、今まさに開こうとしているものを」と四の宮の出発を止めさせました。後白河法皇からの迎えの車が来たのは、その翌日。

 どんなことにもそうなる理由があるとはいえ、この範光という人は、四の宮にとっては、特別な奉公のあった人。しかし、その忠義を忘れられてしまったのか、範光は何の恩賞もないまま空しく歳月を送っていました。

 ある時、範光は、もしや思い出してもらえるかもと、2首の歌を詠み、禁中に落書しました。

  一声は思ひ出でてなけホトトギス

    老その森の夜半(よは)の昔を

  龍(こ)の内も猶うらやまし山がらの

    身のほどかくす夕顔の宿

 主上は落書のことを聞き知り、「これ程の事を今まで忘れていたとは、返す返すも愚かだ」と告げました。範光は、すぐに朝恩にこうむり、正三位に叙されたといいます。

(2012年1月4日)


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