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(239)都の混乱

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登場人物:平貞能、菊地高直、原田種直、重貞、楯親忠、覚明、平知盛、平重衡、平通盛、平教経、源行家、矢田義清、平宗盛、建礼門院

 寿永2年(1183年)7月14日、肥後守の平貞能が鎮西(九州)の謀反を平定し、菊地高直、原田種直、松浦党など3000騎を引き連れて上洛しました。鎮西の謀反は平げましたが、東国・北国のいくさは鎮まりません。

 7月22日の夜半、源氏が討ち入ってきたといううさわが流れ、六波羅周辺が大騒ぎになりました。馬に鞍を置き、腹帯を締め、家財を東西南北に運び隠しました。夜が明けて真相が判明すると、美濃源氏の佐渡衛門尉・重貞という、保元の乱の際に後白河法皇方に破れ落人になっていた源為朝をからめ捕りその恩賞として兵衛尉から右衛門尉に昇進しそのため源氏一門から恨まれ近ごろは平家にへつらっていた者が、その夜、六波羅に駆け込んで、「源義仲はすでに北国から5万騎で攻め上り、比叡山の東坂本に満ちている。郎党の六郎・楯親忠と、右筆の覚明が6000騎で比叡山に駆け上り、3000の衆徒と同心して、ただ今にも、都へ乱入せん」と報告したので、平家の人々が大騒ぎをして、方々へ討っ手を差し向けたとのことでした。

 平家では、大将軍の平知盛、平重衡が3000騎を率いてまず、山科に陣取りました。平通盛、平教経が2000騎で宇治橋を固め、平行盛、平忠度が1000騎で淀路を固めました。

 しかし、源行家が数千騎で宇治橋を渡り都へ入った、陸奥新判官義康の子で判官代の矢田義清が大江山をへて上洛する、などとうわさされました。また、摂津の国・河内の源氏が同心し、源義仲と時を同じくして都へ乱入するともいわれました。

 平家の人々は、「このうえは力およばず。ただ1個所でどうにもなれ」と、方々へ向けた討っ手を皆、都へ呼び戻しました。白氏文集に『帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし(帝都は名利に追われる所で、ニワトリの鳴く頃から安住することがない)』とありますが、治世でもかくのごとし。いわんや、乱世においては。

 平家の人々は、吉野山の奥の奥へでも入ろうかと思いましたが、諸国七道がことごとく平家に背き、どこの港に隠れる場所があるでしょう。「三界無安、猶如火宅(三界/欲界・色界・無色界は安きことなく火宅のようだ)」という如来の金言は、法華教の妙文であり、まさにその言葉の通りです。

 7月24日の夜更け、平宗盛が建礼門院・平徳子のいる六波羅の平頼盛邸・池殿に行き、告げました。

「源義仲はすでに北国から5万騎で攻め上り、比叡山東坂本に満ちている。郎党の楯親忠と右筆の覚明が6000騎で山を登り、3000の衆徒を引き連れて、ただ今にも都へ乱入するといわれている。人々で、都の内にいてなんとかならないかと詮議したが、さしあたり、建礼門院・平徳子と、平清盛の妻の二位の尼・平時子に憂き目に遭わせることが辛いので、後白河法皇と安徳天皇を伴って、西国へ御幸・行幸してもらおうと思い、来ました」

 建礼門院・平徳子は、「今はただ、そなたのはからいの通りに」と御衣の袂からやむことのない涙をこぼしながら答えました。平宗盛も、直衣の袖をひたすら絞っていました。

(2011年12月30日)


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