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(209)経の島

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登場人物:平宗盛、平清盛、基宗、阿波民部重能

 葬送の夜、不思議な事が起こった。玉を磨き、金銀を散りばめて作られた西八条殿ですが、その夜、突然、焼けてしまいました。家が焼けることは珍しいことではありませんが、誰が言ったのか、放火だとうわさされました。

 また、六波羅の南方で、人ならば2、30人ほどの声がして、「嬉しや水、鳴るは滝の水」と拍子を取って、舞い、踊り、どっと笑う声がしました。さる正月には高倉上皇が崩御し、天下が真っ暗になりました。わずか一か月を隔てて、今度は平清盛が死にました。心のいやしい者も、どうして憂えずにおられようか。おそらくその声は天狗の仕業だろうということになって、平家の血気さかんな兵ども100人あまりが声がする場所を訪ねると、この3年は後白河法皇は使っていない法住寺殿から聞こえました。

 法住寺殿には、留守居の備前前司・基宗というものがいました。その基宗が知り合いを集めて、酒盛を催していたのでした。はじめは、「このような折節なので音を立てるな」と注意して飲んでいましたが、次第に酔い、舞い、踊りました。六波羅の兵たちはそのことを聞きつけ、押し寄せました。酒に酔った2、30人をからめ捕って、六波羅へ連れ帰り、中庭に引っ立てました。平宗盛は縁の大床に立ち、事の次第を尋問しました。しかし、「ここまで飲み、酔った者をたやすく切るべきではない」と言って、皆、帰されました。

 およそ上下を問わず人が死んだあとには、朝夕に鐘を鳴らし例時修法 を営むことは人の世の習いですが、平清盛が死んだのちは、供養はいっさいなく、朝夕、ただ合戦のための営みに専念しているということです。

 平清盛は、最期こそ恐ろしいこともしましたが、常は、尋常ではないことを多くしました。日吉の社へ参詣したときも、当家、他家の公卿を多く連れて行き、「摂政関白の春日詣や、宇治の平等院鳳凰堂参拝といえども、ここまではいかない」とうわさされました。

 また、何よりも、福原の「経の島」(神戸市兵庫区築島という)を築いて、都から出る船、入る船がみな、今に至るまで、安全に通行できるようにしたのは、めでたいことです。

 経の島は、去る應保元年(1161年)2月上旬に築き始めましたが、同年8月2日、突然の大風、大波で皆、流されてしまいました。應保3年(1163年)3月上旬に、阿波民部重能を奉行にして工事に着手しました。その際、人柱を立てるべきだと公卿詮議したこともありましたが、それはなかなか罪深いことだと、石の表面に一切経を書いて沈めました。そのため、経の島と言います。

(2011年12月20日)


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