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登場人物:後白河法皇
後白河法皇は立て続けの不幸を嘆きました。去る永万のころには、第1皇子二条天皇が崩御しました。安元2年7月には、孫の六条天皇が崩御。空にいれば並んで飛ぶ比翼の鳥で、地にあれば共に天へ向かう枝であろうと天の川の星を指して深く契った建春門院にも先立たれました。年月は隔てていましたが、どれも、昨日今日の別れのように思い涙も尽きないでいたところ、治承4年(1180年)5月には、第2皇子・以仁親王が討たれ、現世のこと、後生のことを頼みにしていた高倉上皇にもしなれてしまいました。どうしようもなく嘆き、涙が尽きませんでした。
大江朝綱は、「悲しみの至りとは、老いてのち、子に先立たれること以上に悲しいことはない。くやんでもくやみきれないのは、若くして親に先立つことほど恨めしいことはない」と、子息の澄明(すみあきら)に先立たれて記しましたが、後白河法皇はその心を知ったのではないでしょうか。
いまはただ、法華経の読経を怠らず、真言の行法を行い、高倉上皇の喪に伏していましたので、大宮人も喪服に身を包み、沈んだようにしていました。
平清盛は、後白河法皇がしんみりとしているので、さすがに気が咎めたのでしょうか、後白河法皇を慰めようと、安芸の厳島神社の内侍が生んだ18歳の姫君を後白河法皇に献上しました。平家・他家の公卿たちがたくさん供奉し、女房の輿入れのような華やかさでした。高倉上皇が崩御してわずか27日(にしちにち=14日)もたっていないのに、そのようなことをすべきではない、と人々はささやき合いました。
(2011年12月19日)
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