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源頼政は、信頼していた家臣である遠江国の住人・猪早太(いのはやた)に、鷲の両翼の下に連なる羽の中で風切りという羽ではいだ矢を背負わせ、猪早太一人だけを供にしました。
頼政は、自分は、表裏同色の狩衣に、山鳥の尾っぽの毛ではいだ、先のするどくどがった矢を2筋、滋藤の弓といっしょに持ち、南殿の大床に行きました。
頼政が矢を2筋持っていたのは、公卿補佐の源雅頼が、その時雅頼はまだ左少弁でしたが、「変化の物を退治できる吾人は頼政だ」といい頼政が選ばれたからでした。頼政は、一の矢で変化の物を射損じたら、二の矢では「雅頼めの首の骨を射てやる」ということでした。
案の定、いつも人々が言っているように、御難の時間になると、東三条の森の方から一群の黒雲が立ち起こり、御殿の上を覆いました。
頼政が、きいと見上げると、雲の中に怪しい物の姿がありました。頼政は、射損じたら生きてはおられないと思いました。しかしながら、矢を取って弓につがい、南無八幡大菩薩と心の中で祈願し、よつと引いて、ひようと放ちました。
手ごたえがあり、はたと矢が当たりました。頼政は、「得たりや、おう」と矢を射たときに叫ぶ詞「矢叫び」をあげました。
猪早太が、さっと近寄り、落ちてきたところを取り押さえました。柄も拳も貫通せよとばかりに、続けざまに9回、刀で刺しました。
手に手にたいまつを持ち、上から下から照らすと、
頭は猿
体はたぬき
尾は蛇
手足は虎
のようで、鳴く声は、鵺(ぬえ:とらつぐみという鳥)に似ている、恐ろしい怪物でした。
近衛天皇は感激し、獅子王という御剣を頼政に与えることにしました。
宇治の左大臣・藤原頼長が御剣を受け取り、源頼政に与えようと、御前の階段を半分ほど降りた時、時候は卯月(4月)10日ばかりのころでしたので、雲の間に、郭公(ほととぎす)が2声、3声鳴いて通りました。
藤原頼長は、
郭公(ほととぎす)名をも雲井にあぐるかな
と詠みました。頼政はひざをつき、左の袖を広げ、月を少しわき目に眺めつつ、
弓はり月のいるにまかせて (月の入るままに射たにすぎませんという意)
と下の句を続け、剣を受け取り、退出しました。人々は、頼政は武芸だけでなく歌道にも優れていると感心しました。
かの変化の怪物は、丸木舟に入れて流されたといいます。
(2011年11月28日)
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