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ミニシアター通信平家物語 > (135)以仁親王の三井寺脱出

(135)以仁親王の三井寺脱出

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 そのようにしているうちに、以仁親王は、「比叡山延暦寺は心変わりした。南都の奈良・興福寺はいまだ到着しない。三井寺だけでは、どのようにしても、かなわない」と言って、23日の明け方に、三井寺を出て、奈良へ落ちました。

 この以仁親王という人は、蝉折(せみおれ)、小枝(こえだ)という、漢竹の笛を2つ持っていました。

 なかでも、蝉折は、昔、鳥羽院の時代、宋朝へ砂金を大量に送り、その返礼として、生きた蝉そっくりな節のついた笛竹を一節、送ってきました。

 これ程の宝物をどのように掘らせるべきかということになり、三井寺の大進僧正・覚宗に命じ、護摩壇の上にそなえ、7日間加持をして、掘らせた笛。

 あるとき、高松中納言・藤原実衡が来て、この笛を吹きました。実衡は大事な笛であることを忘れ、普通の笛のように、この笛を膝より下に置きました。笛がとがめだてたのでしょうか、その時、笛の蝉のところが折れてしまいました。それで、蝉折と名づけられました。

 以仁親王は笛の名手ということで、蝉折を相伝されたといわれます。

 しかし、以仁親王は、今を限りと思われたのでしょうか、蝉折を、三井寺本堂の本尊・弥勒菩薩に収めました。龍華の下で再開したいと思ったのでしょうか、哀れなことです。

 そうして以仁親王は、老僧たちには暇を出し、三井寺に留めました。しかるべき若者、大衆、悪僧たちが以仁親王の供をすることになりました。供は、頼政の手の者、渡辺党、三井寺の大衆ら1500あまり。

 乗円坊の阿闍梨・慶秀は、老人が持つという「鳩の杖」にすがり、以仁親王の御前に出て、両目から涙をはらはらと流して言いました。

「どこまでもお供をするべきですが、年すでに80を超え、行歩にはかないがたくあります。なので、弟子の刑部房・俊秀にお供をさせます。

 俊秀は、先年の平治の乱の合戦のとき、故・左馬頭、源義朝の手により六条河原で討ち死にした相模の国の住人である山内須藤刑部丞・俊通の子です。その所以もある者ですので、養親が手元で育てるような「跡懐」のように思って育てた者です。俊秀の心の底まで知り尽くしていますので、どこまでもお供するでしょう」

 阿闍梨・慶秀が涙を流して伝えると、以仁親王もあわれに思って、「今までなんのよしみもないのに、どのようなよしみでそこまで申してくれるのだ」と、涙をあふれさせました。

(2011年11月24日)


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