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ミニシアター通信平家物語 > (130)興福寺の返状、その1

(130)興福寺の返状、その1

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 園城寺三井寺から平清盛を滅ぼすため手を組みたいという牒状を受け取った南都・奈良興福寺の大衆は、一同詮議して、すぐに返状を送りました。

興福寺から園城寺三井寺への返状


 興福寺が牒す、園城寺三井寺の寺務所へ。

 三井寺からの一紙の牒状が届いた。その牒状に、浄海入道・平清盛が貴寺の仏法を滅ぼそうとしているとある。

 玉泉寺(=三井寺、天台開祖智者大師が荊州の玉泉寺で生まれる)、玉花(=興福寺、唐の太宗皇宗が法相の始祖玄奘三蔵に帰依してその玉花宮を以て三蔵の訳場にあてたことから法相宗興福寺をさす)の両家は宗義を分かつといえども、仏教の金章金句は、同じく釈迦一代の経文からきている。

 南京(奈良)、北京(京都)は共に如来の弟子。自寺も、他寺も、たがいに、仏敵となった調婆達多を滅ぼすべき。

 そもそも、平清盛は、平氏のぬかかす。武家の塵芥。祖父・正盛は蔵人五位の大蔵卿・為房の家に仕え、諸国の国司の手先となった。

 正盛は、大蔵卿・為房が加賀の国の国司だった昔は、検非違使の役所に勤め、修理職の長官・藤原顕季が播磨の国の国司だった昔は、正盛を厩の責任者に任じた。

 それなのに、清盛の父・平忠盛が昇殿を許された。そのときでさえ、都の老若は皆、鳥羽上皇の過ちを惜しみ、また、内典外典にすぐれた学者たちは、わが国の行く末を憂えた。

 忠盛は高位高官のなりを整えたが、世の人々はなお、出自のいやしさを軽んじた。名を惜しむ青侍たちは誰も、平家に仕えようとしない。

 そして、まさに、平治元年12月、後白河上皇が戦の功績を評価して、平家に、続くもののない恩賞を授けてからこのかた、高くは相国(太政大臣)までのぼり、併せて、護衛の随身を賜った。

(2011年11月22日)


(131)興福寺の返状、その2

(132)三井寺での詮議

(133)三井寺からの軍勢の出発


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