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(108)高倉上皇の鳥羽殿訪問

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 治承4年(1180年)3月19日、大宮大納言・藤原隆季が、夜のうちに参上して、御幸の仕度を調えました。

 いよいよ、このところうわさになっている厳島神社への御幸が、西八条の屋敷から始まりました。3月の半ばを過ぎましたが、霞に曇る有明の月(夜明けに残っている月)は、まだ、おぼろです。北国を目指して帰る雁が内裏の上の空を過ぎるのも、折が折だけに、あわれでした。

 高倉上皇は、夜が明けないうちに、鳥羽殿に到着しました。

 高倉上皇は門前で車から降りました。門の中に入ると、人が少なく、木立で薄暗く、ものさびしげな住まいでした。まず、そのことをあわれに思いました。

 春は既に過ぎて、庭の木々は夏木立になろうとしています。梢の花はしおれ、宮殿のうぐいすの声も老いています。

 昨年の正月6日、朝きんのため法住寺殿へ御幸があったときは、音楽を奏する舎である楽屋で、舞楽の始め又は行幸などに笛太鼓でまず奏する楽である「乱聲(らんじょう)」を奏し、公家殿上人が参列し、六衛府の武官が陣を敷き、院に伺候する公卿が幔幕をはった門を開き、宮中の掃除や行事での設営などを担当する掃部寮の役人が道にむくろを敷き、執り行われた正式な儀式の様子は、影もありません。

 高倉上皇は、今日はただ夢かと思いました。

 桜町中納言・藤原成範(しげのり)が、高倉上皇の到着を後白河法皇に伝えました。

 後白河法皇は、寝殿の南階の前に2本の柱を立てて屋根を吹き出した場所である「階隠し(はしがくし)」の間へ出て、高倉上皇を待ちました。

 高倉上皇は今年20歳、明け方の月の光に照らされ、姿もひときわ美しく見えました。その姿は、故建春門院・平滋子にとても似ていましたので、後白河法皇はまず、建春門院・平滋子を思い出して涙を流しました。高倉上皇と後白河法皇の席は近くに設けられました。そのため、2人の会話は誰も聞くことができません。御前には、信西の妻・紀伊二位の尼(朝子)だけが伺候していました。

 2人は長く言葉を交わしました。日がとうに昇ってから、高倉上皇はいとまをこい、下鳥羽辺りの船着き場である草津から船に乗りました。

 高倉上皇は後白河法皇がいる鳥羽離宮のさびれた様子を悲しみながら出発し、また、後白河法皇は高倉上皇の旅路、波路を心配しました。まことに、宗廟・伊勢神宮、八幡、賀茂などを差し置いた、安芸の国までのはるばるの御幸を、どうして神明も御納受しないだろうか。祈願成就は間違いなしと思われました。

(2011年11月16日)


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