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(106)安徳天皇の即位

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 高倉天皇と建礼門院の子である、安徳天皇が誕生しました。しかし、平家では、重盛が病気で死に、清盛の暴走を制止できる人がいなくなります。清盛は、ついに、常々不審を抱いていた後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉しました。

 「平家物語 巻の四」は、その鳥羽離宮の様子から始まります。

安徳天皇の即位

 治承4年(1180年)元日、後白河法皇が幽閉されている鳥羽殿では、平清盛が朝賀を許さず、また、後白河法皇も気を使っていたので、三が日の間、朝賀に訪れる者はいませんでした。しかし、その中で、故少納言入道・信西の子で、桜町中納言・藤原成範と、その弟で、左京職の長官である左京大夫の藤原脩範(ながのり)だけは、特に許されて伺候しました。

 正月20日は、東宮・安徳天皇の、男子が初めて袴を着ける「袴着」と、誕生後初めて魚肉を食べさせる「御魚味始」というめでたい儀式がありましたが、後白河法皇は鳥羽殿におり、よそ事のように様子を聞くだけでした。

 翌21日、高倉天皇は特にこれといったとがもなかったのですが、帝位から降ろされて、皇太子が天皇になりました。これも、平清盛が何事につけても自分の思うとおりにした結果のことです。

 譲位の時刻になったので、人々は騒がしくなり、内侍が、玉璽、宝剣を安徳天皇の御所に移します。公卿たちが禁中で節会その他の公事を行う際に列座する場所「陣」に集まりました。儀式を先例に基づいて行いました。

 左大臣・藤原経宗が陣から出て、譲位の旨を読み上げると、心ある人々は涙を流し、心を痛めなかった人はいませんでした。自ら皇位を皇太子に譲り上皇の御所に静かに移ったかつての譲位でも、哀れが多いことが習いでした。ましてや、今回は、心ならずも清盛によって譲位させられたもの。高倉上皇の心の内は、言うも愚か。

 また、三種の神器など伝えられている数々の玉物も、新帝の皇居で、五条東洞院の西にある大納言邦綱の屋敷に移しました。

 二条西洞院の西にある高倉上皇の御所・閑院殿には、明かりもわずかで、時刻を報ずる役人である鶏人の声もなくなり、蔵人の取次で滝口の武士が名乗って出仕する滝口の問籍も絶えてしまいました。なので、古参の人々は、新帝即位というめでたい祝いの席でも、いまさら哀れに覚え、涙を流して袖を濡らさない者はいませんでした。

 安徳天皇は今年3歳、先例のない無理な譲位だと、人々はささやき合いました。

 安徳天皇の乳母・帥典侍(そつのすけ)は大納言・平時忠の妻でしたので、時忠は、「今度の譲位は先例のないことだと讒言する者がいるが、そんなことはない。異国の例を見ても、周の成王は3歳、晋のぼく帝は2歳で即位した。これらは皆、「むつき」に包まれて、かならずしも正式な衣服を身に着けていたわけではない。あるいは、摂政が背負って即位し、あるいは、母后が抱きかかえて政務に及んだ。しかし、後漢の孝しょう皇帝は、生まれて100日で帝位についた。このように幼い天子が即位する例は、本朝にも、異国にもある」と言いました。朝廷の礼式典故に通じた者たちは、「なんと無謀なことを言うものだ。ましてや、それらは良き例と言えるか」とつぶやき合いました。

 安徳天皇が即位すると、平清盛夫婦は、外祖父、外祖母として、太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた「准三后」の宣旨を受けました。三后に給する俸禄を賜り、御所に当番として出仕する役人を召使い、衣服を着飾った者たちが仕え、ひとえに、院の御所のごとくでした。出家した人が准三后の宣旨を賜った例は、法興院の大入道・藤原兼家公のほかは、ないと言われています。

(2011年11月10日)


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