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ミニシアター通信 > あらすじ&読書感想文5 > 女たちの会津戦争−高木時尾

(9)女たちの会津戦争−高木時尾

竹内みちまろ 参照回数:


 高木家は、300石取りの重臣で大目付の家柄でした。高木小十郎は安政5年(1858年)に没しましたが、妻の克子との間に、時尾、民、盛之輔の3子をもうけます。時尾はもとは貞といい、高木家は山本家や日向家と隣接していました。山本八重と日向ユキは時尾の祖母に裁縫を習っていたといいます。

 時尾は、藩主松平容保(かたもり)の義姉・照姫の祐筆(書記)として鶴ケ城に上がり城勤めをしていました。鶴ケ城籠城戦の際、男装して戦う八重が自分で髪の毛を切ろうとしてうまくいかず、時尾が八重の髪の毛を切ったという逸話が残されています。時尾は、籠城戦では、負傷者の救護にあたったようです。また、会津では、降伏後、会津藩士の戦死者は罪人とされ、遺体の埋葬は許されませんでした。半年も放置され続けましたが、ようやく埋葬許可が出来た際、時尾は、埋葬に尽力したそうです。

 時尾は斗南藩に移住し、移住の指揮を執った倉沢家の養女になっていました。時尾の弟の高木盛之輔は幼名を五郎といい、会津戦争の際は15歳。16歳と17歳からなる白虎隊には入れませんでしたが、伝令などの役目を果たし戦います。斗南では盛之輔の家族も倉沢家に同居していました。盛之輔は、のちに司法界に進み検事正として活躍します。盛之輔の娘の秦子(しげこ)は、佐川官兵衛の1子・直諒(なおよし)に嫁ぎ、勝(すぐれ)を生みます。

 詳しい時期は不明ですが、時尾は、東京で警察官の職を得た元新選組隊士の斎藤一(斗南時代以降は「藤田五郎」を名乗ります)と結婚し、東京に移住。明治40年(1907年)には会津戦争の犠牲者のため、会津出身の女性10人と会津の阿弥陀寺に桜を植樹。翌年には、会津出身の婦女子に対し、阿弥陀寺に墓田購入の寄付を募り、自らも若松外発起人総代となります。斎藤一が72歳で世を去った10年後の大正14年(1925年)75歳の生涯を閉じました。時尾の墓は、斎藤一と共に、会津の阿弥陀寺にあります。

 高木家では、時尾の母の克子は木本家から嫁いできており、克子の姉の道子は沼沢弘通に嫁いでいます。弘通は沼沢家の12代目になりますが、10代目、11代目には西郷家から嫁が来ていました。西郷家一族自刃の際、沼沢家でも、時尾の伯母にあたる道子とその2人の娘、そして西郷家から嫁いできた貞子が命を絶ちました。





→ (1)会津落城


→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇


→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ


→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ


→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵


→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)


→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子


→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子


→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾


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