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車輪の下/ヘッセのあらすじと読書感想文

2011年2月9日 竹内みちまろ 参照回数:

 『車輪の下』(ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳)は、少年の生きざまを描いた物語です。少年は、家庭や環境に恵まれなかった孤独な詩人でした。青年になるも、うまく生きることができません。自死ともとれる最期をとげます。

 『車輪の下』は少年ハンスが、限られた大人たちの元で暮らす様子を描くことからはじまります。青年になったハンスは、『車輪の下』では、「母親はない厳格な少年時代を送ったため、愛着という性質がいじけてしまったのだった」という説明のされ方をしています。しかし、厳格な教育や抑圧というよりは、たんにほったらかしにされていたような気がしました。しかし、そんな放置状態にあったハンスは、孤独を愛し、感受性に満ちた内面世界を持っていました。

 『車輪の下』のハンスは家で勉強をしていたようですが、自室について、以下のように記載されています。

「ハンスは自分の小さいへやにあかりもつけないで長いこと起きていた。きょうまでこのへやは、試験騒ぎによって彼が受けた唯一の恩恵だった――小さいながら、自分のへやで、ここにいれば自分が王様で、だれにもじゃまされなかった」

「奪われた子どもの遊び以上に値うちのある時間をここで味わうこともあった。それは、得意と陶酔と勝ち誇った気持ちにあふれた、夢のような、なんともいえないものだった。そういうとき、彼は夢うつつのうちに学校も試験もなにもかも越えて、一段と高いものの世界にあこがれひたるのだった」

 そんなときのハンスは、「自分はほおのふくれたお人よしの友だちたちとはまったく別なすぐれた人間で、いつかはきっと人界離れた高いところから得々と彼らを見おろすようになるだろうという、思い上がった幸福感にとらえられた」そうです。語り手が地の文で「思いあがった」と価値判断を加えているところは、翻訳でもありますし、何ともいえないところですが、ハンスは、知識や知性を吸収するための時間を積み重ねることによって、ある種の、恍惚感に満ちた時間を、勉強部屋で過ごしていたようです。

 この陶酔ともいえる恍惚感にたどり着いた部屋は、ハンスが寄宿制の学校に入ってからも、「彼自身はホーム・シックを感じなかったが、やはり家の静かな小さいへやが惜しまれた」と思い起こされます。家は恋しくないのですが、自分独りだけの時間を過ごすことができた部屋は恋しがっています。

 『車輪の下』のハンスは、自然を愛する少年でした。

 『車輪の下』で、ハンスが試験に合格したあと、父親が「顔を輝かしておおぎょうに」「さあ、二マークやるぞ」と小遣いを渡す場面があります。ハンスは鍛冶屋まで駆けていき、鍛冶屋の好意もあり特別上等のナイフを買います。ずいぶんと時間をかけて釣り竿にする木を選びます。「失った美しい時をいま、二倍にして取り返し、なんの屈託も不安もなく、もう一度小さな少年に返ろうとするかのように」過ごします。

 『車輪の下』の冒頭のハンスは、世の中のことや人生のことについて考えたり、悩んだりする年齢ではありませんでした。ただ、言われるままに勉強し、勉強するなかで、天性の知性も駆り立てられて特別な体験をしたりしていました。

 『車輪の下』のストーリーは、ハンスがめでたく、試験に合格することで展開します。前途洋々といいますか、前途などを考える必要もなくここまでやってきて、そして、つかの間の自由な時間を過ごします。それがどんなにかけがえのないものかは頭ではわかっていなかったかもしれません。でも、あとになれば、必ず、大切な思い出となる時間です。

 『車輪の下』のハンスは自然を愛したというよりは、家は恋しくないのですが部屋は恋しいのと同じように、自然のなかで一人きりで何も考えずに、何の心配もせずに過ごすことができた時間を愛したのではないかと思いました。しかし、実際は、休暇の間も、勉強をするはめになります。

 また、試験の当日に、ハンスがそこで知り合った少年と答え合わせをする場面がありました。その少年はハンスが知らない文法上の用語を二度も使います。ハンスは、試験に二番で通過するのですが、それとは別の次元の現象として、ハンスは今まで出会ったことのなかった自分よりも優れた少年に会いました。ある意味では自分が井の中の蛙であったことを知った瞬間だと思います。純粋で素朴な少年が世界を知る、もうそれだけで何かが起こりそうですし、例えば、作者がディケンズとかであれば、ここから、はらはらどきどきの大冒険が始まりそうな予感です。

 しかし、『車輪の下』はそのような展開はしませんでした。

 ハンスは、一番になるという目標を捨て、勉強もあきらめて、やがて、あとにはってはじめて「ラテン語学校の最後の二年間にひとりも友だちがなかったことに気づいた」ような孤独な生活を送ります。ハンスは、自分の興味があることにしかエネルギーを向けられない性格ではあったのですが、ついには、興味すらも失ってしまいます。退学になり家に帰ります。無気力になり、鈍感になります。「また釣りを始めたかったが、父親に願い出る勇気がなかった」ハンスは、「だれにも見られない岸べに長いあいだたたずんで」魚が泳ぐ姿を見つめます。かつてのような、何の心配もなく、ただ目の前にある時間だけを好きなように過ごせばよかった時代に戻ることは永遠にありませんでした。

 『車輪の下』に登場するハンスの父親は、典型的なダメ人間という感じです。

 試験が終わってから、根掘り葉掘り聞こうとした場面がありました。ハンスが「失敗しちゃったんだよ」というと「なぜ気をつけなかったんだ」とののしります。もう終わったことなのでどうにもなりませんし、「なぜ気をつけなかったんだ」と言われても答えようがありませんが、取り返しのつかないことを取り返しがつかなくなったあとにねちねち言うところなどダメ人間の典型です。ハンスは黙ってしまいました。

 また、入学するために寄宿舎に来たときも、父親は荷解きがとっとと終わってしまい、「ハンスといっしょに退屈して所在なく大寝室にぼんやり立ってい」ました。しかし、どこを見ても、「教えさとす父親、慰めや注意を与える母親、せつなげに聞いている息子たちが目に映ったので、彼もハンスのための将来の生活へのはなむけとして金言でも与えてやるのが、しかるべきだと思った」。長いあいだ頭をひねり、無言の少年のそばで苦悩し(=この親子はコミュニケーションがない)、こそこそ歩きまわったあげく、「じゃ、いいな。家の名誉をあげるようにするだろうな。そして目上の人の言いつけをよく守るんだろうな」と告げます。息子とのコミュニケーションがなく、やることもないのですが、周りを見るとみんなそうしているから自分もそうしようと思い、しかし、口から出たのは、いい子になれという命令でした。

 『車輪の下』では、作中に、何回か、ハンスを抑圧したことに対するうらみごとのような記述があるのですが、社会がそうしたというような抽象的な書き方が多かったです。しかし、ラストシーンでは、靴屋が父親との会話の中で自戒のようなことを言う場面がありました。父親が理解したのかどうかは不明ですが、靴屋は「いや、もうなにもいうまい。あんたとわしもたぶんあの子のためにいろいろ手ぬかりをしてきたんじゃ。そうは思いませんかな?」と告げました。

 この「手ぬかり」というせりふを読んで、芥川龍之介の『侏儒の言葉』を思い出しました。

 『侏儒の言葉』は、一つの言葉を取り上げてその言葉から湧き上がった随想を書き連ねていく形式の文章です。小説というよりは、批評的な詩的散文です。『侏儒の言葉』の中で、「教育」「尊徳」「親子」という言葉が取りあげられています。

・先人の足跡を見よと言われるが、生き方は見るだけでは習得できない。生き方は教えられなければならない。(「教育」)

・「二宮尊徳の親は何をしていたの?」という問題意識が欠けたまま「尊徳のように!」と連呼する親や教師は、つまるところ、都合のよい子どもを望んでいるだけ。(「尊徳」)

・古来から大勢の親たちが「わたしはひっきょう失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならない」と繰り返してきた。(「親子」)

 ハンスも、生き方を誰からも教えてもらえずに、ほったらかしにされて、それでいて天性のかしこさがあったため、自分独りで試験に受かってしまいました。しかし、生きる、共同生活をする、コミュニケーションを取ることなどは、まったく学習してこなかったので、うまく生活をすることができませんでした。

 何がよくてどうあるべきなのかは難しいところですが、「手ぬかり」がほんの少しでも別の形になっていたら、ハンスの人生も変わっていたのではないかと思います。

 『車輪の下』は、孤独を愛するしかできなかった天性の詩人の悲しい物語だと思いました。


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