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映画「惑星ソラリス」と原作「ソラリスの陽のもとに」について

2006年9月18日 竹内みちまろ 参照回数:

 映画とその原作である小説の違いについて考えてみたいと思います。「SOLARIS」という作品を素材に取りあげてみたいと思います。小説「ソラリスの陽のもとに」、映画「惑星ソラリス」、映画「ソラリス」という3つの作品をご紹介します。ちなみに3つとも原題は「SOLARIS」のようです。

「ソラリスの陽のもとに」


 「ソラリスの陽のもとに」」はSF小説です。スタニスワフ・レムという人が書きました。みちまろはハヤカワ文庫収録の「ソラリスの陽のもとに」(飯田規和訳)を読みました。著者紹介を見ると、スタニスワフ・レムは、1921年に(当時)ポーランド領西ウクライナで生まれたようです。哲学、医学、理論生物学を学びました。解説ではポーランドが生んだ作家という紹介のされかたをしていました。「SOLARIS」は1961年に書かれたようです。鉄のカーテンの向こう側、(もちろん著者にとってはこちら側)、ソ連支配下の社会主義圏で生まれた作品です。

 「ソラリスの陽のもとに」の内容を簡単にご紹介します。「ソラリスの陽のもとに」はソラリスという惑星が舞台です。ソラリスの観測ステーションに1人の男がやってくる場面からはじまります。男は意味不明なデータばかりを送ってくる観測ステーションの状況の確認と、行き詰まっているソラリス研究を打ち切るべきか否かの最終判断をするための観察を目的にしているようです。男は心理学者ですが、男がソラリスに来ることになったいきさつや男の人生などは語られません。ソラリスにやってきた男が「地球中心主義的」な考え方では理解のできない現象に遭遇する姿と、「ソラリス学」といわれる惑星ソラリスの研究の歴史が語られていきます。

 「ソラリスの陽のもとに」の時代設定は、有人の宇宙ステーションが恒常的に活動する未来です。せりふから人類が「神」を信じたことが過去の歴史的な現象になっていることがわかりました。しかし、惑星ソラリスの扱いをめぐっては「四カ国条約」や「国際連合の条約」でこまかな取り決めがあります。「ソラリスの海を核兵器で爆破すべし」と叫ぶ人々もいるようです。世界は、依然として大国間のパワーバランスに依存しており、(狂信的とは言え)核兵器でものごとの解決をつけることが一定の説得力を持っている世界のようです。スタニスワフ・レムや当時を生きた人々にとっては、冷戦の終結という事態は想像もつかなかったのかもしれないと思いました。そのあたりの感覚は、1973年生まれのみちまろにはわかりません。

 「ソラリスの陽のもとに」のストーリーは、主人公の前に10年前に自殺した妻が現れることで展開します。主人公はソラリスに来た時から異常事態が起きていることに気がついていました。観測ステーションに2人だけ残っていた学者を問い詰めます。学者たちは苦渋を浮かべて抽象的なことばかりを繰り返します。学者たちは、仲間が自殺した原因は「自分を恥じたからだった」ことや、人類は未知なるものとの遭遇など求めておらず銀河系の端から端まで自分の糞をひきずって歩いているだけであることを自虐的に訴えます。主人公は、目の前に現れた妻は記憶に侵入したソラリスの海が作りあげた物体であることを知ります。主人公は、学者に、「神を信じているかい?」と聞いてみました。主人公は、人類の理解を越えた神秘の存在を感じます。「ソラリスの陽のもとに」は、主人公がソラリスの海に浮かびあがってきた陸地に下りる場面で終わります。主人公は希望を失っていました。同時に、絶望からも解き放たれていました。主人公の心のなかには期待だけが残っていました。そして、かつて人類が信じていた奇蹟は、まだ過ぎ去ったわけではないと確信します。そんな場面で終わりました。

「惑星ソラリス」


 「惑星ソラリス」という映画があります。

惑星ソラリス(1972/ソ連)
監督:アンドレイ・タルコフスキー
主な出演者:ナターリヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット、ニコライ・グリニコ、アナトリー・ソロニーツィン、ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー

 「惑星ソラリス」は「ソラリスの陽のもとに」を原作とする映画です。話の流れは原作と同じです。ソラリスの観測ステーションにやってきた主人公がソラリスの海が作りだした妻に会います。学者たちと言葉をかわして、最後はソラリスの陸地に下り立ちます。

 原作と違うところは、「惑星ソラリス」は地球の場面からはじまることでした。ソラリスの海の上空を飛んだ飛行士がそこで見た現象を証言するビデオテープが紹介されます。このエピソードは、原作では主人公が観測ステーションで見つけた報告書を読むという形で提示されます。「惑星ソラリス」は原作を読む前に見ました。予備知識はゼロでした。そういう時には、まず、この映画はどんなテーマを扱っているのだろうとか、どんな世界を背景にしているのだろうとか、登場人物の性格やストーリーの流れなどの概要を把握することに集中して映像を追います。

 地球の場面では、主人公は父親の家に来ているようでした。主人公の叔母(父親の姉妹)らしき人物がいます。そして、ビデオテープで証言していた飛行士が来ます。ソラリス研究は打ち切り寸前のようでした。飛行士は自分の証言が取り上げられないことに静かな怒りを持っているようです。未知なるものへ挑んだ勇気や誇りを汚されることに耐えられないようでした。主人公は、どこか影のある人物でした。飛行士の情熱をさめた言葉でかわします。飛行士は父親の友人でした。主人公は、そんな飛行士を拒絶するような態度を示します。後になって、父親から、飛行士に対する態度はいくら親子でも許せんぞとたしなめられます。主人公は父親にもあまり心を開いていないように見えました。どこかひとりで思いつめています。ちなみに原作では、主人公の父親は死んでいました。原作では、主人公の脳裏に父親の面影が浮かぶ場面がありますが、それも一瞬のできごとです。原作では、父親はストーリーには必要のない人物のように感じました。また、原作では、主人公の母親は一度も登場しませんでした。

 「惑星ソラリス」に戻ります。飛行士は、主人公のさめた態度に憤慨して帰ってしまいました。しかし、車の中から主人公に電話をかけます。ビデオテープの証言では言わなかったことがあると主人公に告げます。その場面を見て、みちまろは、混乱してしまいました。話の内容やストーリーがどうのこうのではありません。単純に映像に混乱しました。飛行士は車に乗って道路を走っているのですが、それが、なんとなく、どこかで見たような風景だと思っていました。すると、路上に、一瞬ですが、「空港」という文字が見えました。ソ連映画だということは知っていたので、舞台はソ連だと思っていました。あれっと思いました。目の錯覚かとも思いましたが、「空港」と見えたような気がしました。それからは、画面に細心の注意を払いました。すると、追い越した車の扉には「タクシー」と書かれていました。どう考えても、飛行士は、日本の道路を走っていました。これはなんだと思いました。夜の街の風景も映しだされたのですが、ネオンのなかには日本語が光っていました。おかしいです。飛行士は主人公の父親の家から車で帰っていったはずです。そこから、日本の道路を走っている場面に、一瞬にして飛躍したのでしょうか。(場面と場面の間に論理的な飛躍がある場合には自分でその間のストーリーを補ってしまうくせがあるみちまろは)、飛行士は日本に亡命したのかと思いました。時代背景を考えると、ソ連人が単独で車を運転して日本の道路を走るという現象は亡命しかありえないと思いました。飛行士は証言を聞き入れられずに憤慨していました。勇気を汚されたことは、誇り高い飛行士にとっては祖国を捨てることに値するのかもしれないと思いました。父親の家の場面でも、広島に原爆を落としたことに言及していました。そのときはアメリカを非難しているのだろうとしか思いませんでしたが、日本の道路を見て、それだけではないのかもしれないと思いはじめました。ただ、すこし冷静さをとり戻すと、みちまろは日本人だから画面に一瞬だけ現れた「空港」や「タクシー」の文字が日本語であることを識別できますが、画面に一瞬だけ現れたのがロシア語やポーランド語だったら、それがロシア語であるとかポーランド語であるとかは識別できないと思います。同様に、ソ連人もポーランド人も「空港」や「タクシー」が日本語であることは、まず、識別できないだろうと思いました。でも、ソ連人がソ連映画の中で、わざわざ冷戦の敵陣営に位置する日本の風景を映したのだから、それがどうしても日本でなければならないのだろうと思いました。すると、やはり、亡命を暗示しているのかと思いました。もう、頭がいっぱいになってしまいました。「惑星ソラリス」という映画はどんな映画なのか想像もつかなくなってしまいました。

 日本の道路の謎は最後まで見終わっても解決しませんでした。でも、「惑星ソラリス」はゆっくりとしたテンポで流れる映画でしたので、混乱を静めてストーリーを追う落着きをすぐに取り戻すことができました。日本の道路の謎は謎としてみちまろの心には残っていますが、映画「惑星ソラリス」のストーリーのなかではあまり影響はないように感じました。主人公が観測ステーションに着いてからは、そこで起きている現象を理解することに集中しました。主人公も、なにが起きているのかを必死になって知ろうとしていました。そんな主人公の視線に自分の視線を重ね合わせれば、観測ステーションで起きている現象を理解することができました。主人公の目の前に10年前に自殺した妻が現れました。原作でも主人公の前に妻が現れます。そして、原作でも主人公と妻との間になにがあったのかは語られません。主人公とうまくいっていなかった結果として妻が自殺して、主人公がそのことを悔いている事実だけが読者に提示されます。映画でも主人公と妻の間になにがあったのかは詳しく語られませんでした。そして、映画と原作では、主人公の妻の役割に決定的な違いがあると思いました。

 主人公の前に現れた妻は、主人公の意識の中から作りだされた存在でした。そんな妻には主人公の頭のなかにあるイメージが見えるようです。主人公が雪深い風景のなかで母親を思う場面がありました。母親に見守られて、子どもだった主人公が遊んでいます。母親は、どこか心を閉ざしているような雰囲気がありますが、若くて美しい人でした。主人公が思い浮かべる母親の映像を見た妻は、あなたには愛人がいたのと問いかけました。どうやら、母親を愛人と勘違いしたようです。主人公は愛人の存在は否定します。しかし、イメージの中の女性が母親であることは妻には告げなかったように記憶しています。「惑星ソラリス」では、原作には出てこない母親をわざわざ登場させて、おまけに、妻に愛人と勘違いさせているので、そこにはストーリー上で必要な役割があるのだと思います。主人公の心が妻と完全に離れたことを伝えたかったのかもしれないと思いました。原作では、ソラリスの陸地に下り立った主人公の心の中には期待が残っています。その期待は「彼女(=妻)が私に残していった最後の期待であった」と書かれていました。原作の主人公の心の中には妻がいつまでも残っていました。映画の主人公の心からは、絶望とともに、妻は完全に離れていってしまったように思えました。

 「惑星ソラリス」は、ソラリスに残っていた学者たちと主人公の会話も興味深かったです。学者は、われわれは地球の開発だけをしていればよい、宇宙に手を伸ばそうなどと考えるべきではないと言います。科学や文明を過信して宇宙探検にあくせくするのは風車に突撃するドン・キホーテと同じだと言います。主人公は、トルストイは人類を愛せないと悩んだと言います。学者は、人間の思考の範囲はせいぜいが家族や祖国どまりで地球や人類には手が届かなかったと言います。主人公は、恥を知らなければ人類は救われないと言います。主人公か学者かは忘れましたが、かつて人間たちはもっと素朴に生きていたという内容のセリフもあったように記憶しています。主人公と学者たちのセリフを聞いているうちに、文明だとか、恥だとか、人類愛だとかいうものが「惑星ソラリス」のテーマなのかなと思えてきました。原作小説では、未知なるものに対峙するときに地球中心主義的な考え方を持ち出すことのおろかさが強調されていました。原作小説のテーマは、人間的な考え方で未知なるものを理解しようとした主人公が人間には理解することができない対象が存在することを思い知る姿をとおして、人間存在というものを浮き彫りにすることではないかと思いました。理解するとはなにか、信じるとはなにか、人間の心にはなぜ希望や絶望がめばえるのか――うまく言葉にはできませんが、原作小説のテーマは人間の精神性ではないかと思いました。原作小説は、主人公の個人的な体験をとおして主人公の心の中に固有に起きた変化を描いていると思いました。主人公の思念は、文明や人類愛などという範囲には広がっていないように感じました。

 「惑星ソラリス」では印象的な場面がありました。観測ステーションには図書室がありました。重そうなテーブルがゆったりと配置されている落ち着きのある場所でした。図書室の壁には絵画が飾られていました。絵画には雪景色が描かれていました。主人公が母親を回想する場面も雪に覆われた小高い場所が舞台でした。絵画の風景は主人公の心の中にある思い出の風景と重なるのかもしれないと思いました。映像は絵画に描かれた風景をゆっくりと時間をかけて映しだします。絵画の手前には、山のはしと思われる小高い場所からふもとの村を見下ろす狩人と思われる人物たちが描かれていました。映画を見ている人は、猟犬を連れた狩人たちの視線に自らの視線を重ねます。映画を見ている人は、かなたにまで広がるふもと村の風景に向けられます。「惑星ソラリス」の映像も、狩人の視線を追うように遠くにぼやけて見える村の風景を追っていきます。きれいに雪かきされた広場には人々が集っています。人々の姿は小さくてなにをしているのかはわかりませんでした。空には鳥が飛んでいます。羽のかなたには険しい雪山が見えます。「惑星ソラリス」の映像は絵画に描かれた場面をひとつひとつゆっくりとなぞっていきます。狩人たちは木々の間を踏み分けて村に下りようとしているようです。葉っぱを枯らした木は裸の枝を広げています。枝の間から、遠くに建つ小さな尖塔が見えました。丸いだけのなんの飾りもないような建物です。とんがり帽子の屋根は雪をかぶっています。一つだけある入り口から中に入ると、内側にもなんの飾りもなくて、村人たちが普段着で静かに祈っているような場所かもしれないと思いました。冬は雪に閉ざされる山奥の村なのでしょうか。狩りをして、薪を焼いて、そりを引いて、一日の終わりに祈りをささげる、そんな素朴な生活を描いたような絵画だと思いました。そんな風景を映しだす映像を見て、トルストイの小説には、よく素朴に暮らす人々が出てくるなと思いました。ピエールでも、ネフリュードフでも、リョーヴィンでもいいのですが、人生に迷い、過ちを犯し、思いつめる主人公たちは、素朴に暮らし静かに祈りをささげる人たちの姿を垣間見て、ふと、心を動かされていました。トルストイの小説の主人公たちはペテルブルグやモスクワできらびやかな生活を送る青年貴族ですが、雪深い田舎の村に迷い込んで、よくそんな場面に出くわしていました。

 「惑星ソラリス」はラスト・シーンも印象深かったです。ラストに至るまでの展開としては、まず、妻がストーリーから消えてしまいます。妻はしだいに感情や主体性を持つようになります。自分がソラリスの海によって作られた物体であることに気がつきます。妻は主人公にはないしょで学者に頼んで自分の存在を消滅させてもらいました。そこまでは原作小説といっしょです。しかし、そこからの展開は「惑星ソラリス」と原作小説では違っていました。原作では、妻の存在は最後まで主人公の心にありました。「惑星ソラリス」では、妻の存在は、主人公の心の中からも消えてしまったように思えました。妻の代りに主人公のイメージのなかに現れたのは母親でした。コートのポケットに両手をつっこんで少年だった主人公を見つめていた母親です。主人公は(たぶんイメージのなかで)母親を見ました。主人公は母親に戸惑っています。母親は不思議そうな顔をする主人公には気づかずに主人公に声をかけます。主人公の手が汚れているのを見つけた母親は「私がふいてあげるわ」と言ってたらいと水を用意します。主人公はそんな母親に心の裏でもさぐるような目つきを向けます。主人公と母親の関係は映画の中では語られないのですが、主人公は、母親に愛情や安心感を持つことができないようだと思いました。「惑星ソラリス」はクライマックスを迎えます。観測ステーションからソラリスの海に向けて主人公の脳波を送り込む実験が行われました。実験を行った日から、主人公のもとに妻が再び現れることはありませんでした。ソラリスの海にも異変が起きていました。小さな陸地ができはじめていました。

 「惑星ソラリス」のラスト・シーンは、冒頭で映しだされていた地球にある主人公の家でした。主人公は思いつめた顔をして家に帰ります。窓から居間にいる父親の姿が見えました。父親も窓の外に主人公の姿をみとめました。父親は宇宙から帰って来た息子の姿を見ても顔色ひとつ変えません。むしろ冷たい厳格な表情を増します。父親は息子を迎えるためにドアを開けて外に出ました。母親のやさしさにふれても心を開けなかった主人公は、そんな父親の前にひざをつきました。父親にすがりつきます。父親は、体をかがめるわけでもなく、手をさしのべるわけでもなく、主人公の前に立っています。父親がドアを開けた場面を見たときに、主人公と父親は抱き合うのかなと思いました。でも、そのあとの映像を見て、父親と息子の再会の場面とはとても思えませんでした。主人公はひざをついてすがるだけでした。主人公は、運命の先にはなんの救いもないことを知ってしまった人間のようだと思いました。父親はただ立ち続けるだけです。もうどうすることもできなくなった主人公は、人間世界における父親と再会したというよりは、うまく言えませんが、「父なるもの」と遭遇したような印象を受けました。カメラはそんな2人を上から映しながらどんどん空にのぼっていきます。2人がいる家はソラリスの海に出現した孤島のなかにあることが映されました。

 「惑星ソラリス」のラスト・シーンを見たときに、なんの希望もない終わりかただなと思いました。原作小説のラスト・シーンからは、まだ、未知なるものと対峙しようとする人間の姿勢や、人間存在に対してあきらめていない主人公の心が語られました。しかし、「惑星ソラリス」のラスト・シーンからは、人間存在に対する絶望しか感じませんでした。原作小説を読み終えてから、「惑星ソラリス」のラスト・シーンを思い返すと、ますます、絶望しか感じられませんでした。主人公は、もうなにもかもが手遅れだと悔いているようだと思いました。原作小説のラスト・シーンが作家に固有なメッセージを提示しているように、「惑星ソラリス」のラスト・シーンにも映画作成者に固有なメッセージが込められているのかもしれないと思いました。

「ソラリス」


 「惑星ソラリス」は、原作小説の物語世界とストーリーを利用していますが、作品をとおして提示されているテーマは、原作小説とは違うと感じました。原作小説も「惑星ソラリス」も、これはこうであれはああだと指図をするような作品ではありませんでした。むしろ、現象(物語)だけを提示して解釈は受け手に委ねるような作品でした。ひらたく言うと「あとはてめえで考えろ!」という終わりかたをしていました。「惑星ソラリス」は、原作のストーリーを利用しながらも映画制作者が自分なりのテーマを表現した作品だと思いました。人それぞれで思想が違うように、同じストーリーを使っても伝えようとするメッセージまでも同じ必要はないと思います。むしろ、製作者ごとに異なるテーマがあるほうが自然だと思いました。「惑星ソラリス」を見たあとに原作小説を読んでそんなことを思いました。

 さて、「ソラリスの陽のもとに」を映画化した作品がもうひとつあることを知りました。映画「ソラリス」でした。映画「ソラリス」には映画「ソラリス」なりのテーマがあるのかもしれないと思いました。同じ物語世界とストーリーを使って、どんなテーマを提示する作品を作り上げたのか興味が湧いたので見てみました。

ソラリス(2002/アメリカ)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
主な出演者:ジョージ・クルーニー、ナターシャ・マケルホーン、ジェレミー・デイヴィス、ヴィオラ・デイヴィス、ウルリッヒ・トゥクール

 映画「ソラリス」は地球の場面からはじまります。心理学者である主人公はカウンセリングに立ち会ったり患者の留守番電話にメッセージを残したりします。主人公がアパートに帰ります。どうやらひとり暮らしをしているようです。来客を知らせるインターホンがなります。制服を着たどこかの職員たちがやって来ました。ソラリスの観測ステーションから主人公に送られてきたメッセージが流れます。主人公が観測ステーションへ向かいました。

 映画「ソラリス」では、主人公の回想場面がたくさん映しだされます。妻との出会いの場面や主人公がプロポーズする場面もありました。回想のなかのヒロインは、不思議な雰囲気を持っていました。主人公の求婚を受け入れようとしません。ヒロインは、子どものころに幻の友達がいたことを語りはじめました。特殊な思春期を過ごしたと自分で言っていました。映画「ソラリス」は90分ほどの作品でした。はじめのうちから妻とのエピソードが多く語られていました。妻との関係に焦点をしぼった作品なのかなと思いました。実際に、映画「ソラリス」は妻と主人公の愛の物語でした。

 観測ステーションに到着した主人公がそこで起きている異常な現象に遭遇するというストーリーは原作と同じでした。原作と違うのは、ソラリスの海という未知なるものと遭遇した人間の苦悩や思念が描かれていないことでした。予備知識なしで映画「ソラリス」を見た観客は、「ソラリスってなに?」という疑問が最後まで解消されないのではないかと思いました。原作では、「ソラリス学」と呼ばれるソラリス研究の歴史がみっちりと書かれていました。

 いっぽうで、映画「ソラリス」では、ヒロインである主人公の妻の物語は、原作よりも深く掘り下げられていました。原作では語られなかった妻のキャラクター設定や、主人公の心に悔いを残していたと思われる妻との間にあったエピソードも語られています。原作では暗示されていただけの妻の物語は、映画「ソラリス」の製作者の創作だろうと思いました。映画「ソラリス」によると、2人はいっしょに暮らすようになりましたが、妻の不安定な情緒のために、結婚生活はうまくいっていなかったようです。妻が中絶したことを主人公が知る場面がありました。妻は、あなたが子どもを欲しがっていたとは知らなかったと弁解します。主人公は、テープルをぶちまけました。主人公は家を出ます。妻は、あなたがいなければ生きていけないとすがります。興奮した主人公は「だったら生きなければいい」という意味のことを口にしました。家を出ました。冷静になった主人公が家に戻ると、妻は自殺していました。そんな物語が主人公の回想で語られます。

 映画「ソラリス」は観測ステーションで起きている現象と主人公の回想が併走する形式でした。どちらかというと、回想で語られる主人公と妻の物語がメインでした。観測ステーションに現れたヒロインは、ソラリスの海が自分を作ったことを知ります。自殺しても蘇生してしまったヒロインは、自分の自殺願望も主人公の頭の中に残る妻の記憶のコピーに過ぎないと悲しみます。ヒロインは、主人公が観測ステーションに持ち込んだかばんのなかから、妻が自殺したときに手に持っていた主人公宛の手紙(=詩の一節)を見つけたと言います。主人公と妻の物語がこれでもかというほどに語られてゆきます。

 映画「ソラリス」のストーリーは、ヒロインが学者によって消されてしまうことで展開します。このあたりは原作と同じです。学者と主人公は、観測ステーションを放棄して地球に戻ろうとします。そこからラスト・シーンへ移ります。地球に帰った主人公は虚脱感に陥ったようです。決められた毎日を機械的に送ることだけを心がけます。アパートに帰った主人公は、野菜をきざんでいます。指を包丁で切ってしまいました。指を洗います。傷がみるみるうちにふさがってなくなってしまいました。主人公自身が自分が本物ではないことを知ってしまう場面を描いていると思われます。この場面を見て、さっぱりわけがわからなくなってしまいました。主人公のほうがソラリスの海が作りだした幻なら、本物の主人公はどうなったのだろうと思いました。そして、そんな主人公の前にヒロインが現れました。本物の妻は自殺してしまい、ソラリスの海が作りだしたヒロインは消されてしまっていました。では、このヒロインは何者だろうと思いました。また、主人公も幻なら、主人公は誰の記憶をもとにして作りだされたのだろうと思いました。映画「ソラリス」では、ステーションにいた学者が実は幻で、本物の学者は遺体の冷凍保存室の天井に隠されたりしていました。幻は学者の記憶から作りだされたうりふたつの兄弟という落ちまでついていました。映画「ソラリス」では、ストーリーの上でどんな役割を与えられているのかさっぱりわからない奇抜なだけのエピソードが何回も持ちだされているように感じました。映画「ソラリス」は、主人公と妻がくっついて終わります。なにがなんだかわからなくなっている主人公に、妻は、なにがなんでもどうでもいいのよみたいなことを言ったような気がします。そんな場面で終わる映画でした。

 映画「ソラリス」は、DVDを借りたときはやる気まんまんだったのですが、しばらく見てから「もしかして」という気がしました。最後まで見て、「ああやはり」と思った映画でした。映画「ソラリス」では、セリフをとおして、未知なるものに遭遇した人間の思念やソラリスという鏡によって浮き彫りにされた人間の本質などにふれた場面が何回かありました。しかし、ストーリーは主人公と妻の恋物語だけにそって進むので、実体としては、そういったセリフはあってもなくてもどうでもいい場面でした。作った本人たちの頭の中にはそれなりの意図があったのだろうと思いますが、観客の心には響きません。むしろ、作品を冗長にするだけのむだなシーンでしかないような気がしました。

 「ソラリスの陽のもとに」と「惑星ソラリス」がどちらも「あとはてめえで考えろ!」という終わりかたをしていただけに、いっそう、映画「ソラリス」の「なにもかもどうでもいいのです! なにも考える必要はありません! 最後はやっぱり愛なのです!」という終わりかたが心に響きました。


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