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解夏/さだまさしのあらすじと読書感想文

2014年1月15日 竹内みちまろ 参照回数:

解夏のあらすじ


 東京の葛飾区で小学校教師をしていた30代の隆之は、光を見た瞬間に眼に激痛を感じる発作に襲われるようになりました。故郷・長崎の幼なじみで、東京で眼科医を開業してる清水博信に検診してもらい、ベーチェット病と告げられました。原因不明の病気で、発病には個体差がありますが、共通していることは、『眼を食い終わったら完治する』(=失明したら痛みが完全になくなる)とのことでした。

 隆之は、大学時代の恩師で婚約者の陽子の父親・朝村健吉に、自分がおそらく失明することを話します。陽子は、もし病気のことを告げても「ならば私があなたの眼になります」という女性だったので、陽子には病気のことは話さずに別れ、隆之は、長崎の実家に帰りました。3年前に父親が死に、姉は市内に嫁ぎ、今年63歳になる母親の聡子が1人で暮らしていました。

 5月、そんな隆之を、健吉から事情を聞いた陽子が追いかけてきました。「長崎に住むわ」といいます。隆之が故郷の長崎で陽子の顔を見るのは初めてで、元々細面だった顔が、さらにやつれたように見えました。

 隆之は、故郷の街を目に焼き付けるため、長崎を歩きます。坂の多い街でした。隆之の横には、陽子や、少年のころの遊び友達で長崎市内で小学校教師をしている松尾輝彦がいました。街には高層ビルが立ち並び、隆之たちがお寺の境内でかくれんぼうをした頃とは、見える風景が違っていました。隆之は視力を失いつつありましたが、母親には、病気のことは話していませんでした。母親は陽子に尋ね、陽子が話していました。

 隆之が、子どものころにかくれんぼうをした聖福寺に、「鬼塀」がありました。「鬼塀」は、積み上げた古瓦の隙間に鬼瓦が埋め込まれた塀でした。

 隆之は、「鬼塀」を見せるために、陽子を聖福寺に連れて行きました。そこで、隆之は初めて感じる種類の発作に襲われ、立っている感覚を失いました。陽子が、隆之を石段に座らせます。70歳は過ぎているであろう林茂太郎から「どうかされましたかな」と声を掛けられます。林は2人を寺務所に案内し、茶を出します。

 隆之が「視力を失う病気なんです」と告げると、林は「さぞや……不安でしょうなあ」と深いため息をつきました。林は、「結夏(けっか)」と「解夏(げげ)」の話をします。「結夏」とは、修行僧が約90日間共同生活を送って行を積む期間の始まりの日のことで、「解夏」は行の明ける日。「解夏」を迎えた修行僧たちは、共同生活を終えて、ひとりひとり旅立っていったといいます。

 林は、隆之に、「失明する恐怖、という行ですなあ」と言いました。「辛い、辛い行ですなあ」とも。しかし、失明した瞬間に、失明の恐怖からは解放され、「その日がああたの解夏ですなあ」

 梅雨に入ると、発作の回数が増えます。隆之は視力に自信を失っていましたが、ひとりで家を出ました。墓参りの途中、眼をつぶってでもわかると思っていた墓地の中で迷ってしまい、孤独と絶望を感じます。家に帰りつくとソファーに疲れた体を横たえ、寝入ってしまいました。

 隆之は母親の声で目覚めます。しかし、タイミングを逸して、そのまま、隣の部屋で交わされる母親と陽子の会話を聞きました。母親は、陽子の人生を心配していましたが、陽子は「今は隆之さんのそばにいさせてください」と告げます。また、隆之の元に、葛飾区で中学生になった教え子たちから寄せ書きが届きました。「先生。今、岡部がイジメに遭っているようです」「先生、助けに来てください」などと書かれていました。隆之は、帰郷して以来、初めて、強い心がほしいと感じました。

 夏、林に誘われて、隆之と陽子と母親の3人は、興福寺の竜舌蘭を見に行きました。隆之は黄色い蘭の花が見えないことに気が付きました。陽子には、「泣くな」「俺が解放される瞬間なんだ」と声を掛けます。

 帰り道、立ち止まった陽子が、「あの、白い花は、何かしら?」と声をあげます。隆之は懸命に目を見開きますが、何も見えません。大きな呼吸をしてから、「石段の脇の白い土壁の上からのぞくように咲いている花かい」と聞きます。「そう」の声に、「ああ、それならサルスベリだよ」と答えます。

 隆之は、故郷の風景が自分の中に刻まれたことに気が付きました。

解夏の読書感想文


 「解夏」は心に染みる作品でした。

 あらすじは上記した通りですが、登場人物が活躍し、事件が展開していくというストーリー小説ではありません。どちらかというと、詩的な作品でした。抑えた表現で描かれているため、描写からというよりも、読者ひとりひとりの心の中にある心象風景から、温かさだったり、美しさだったり、哀しさだったりが広がっていくと思います。

 「解夏」で提示されていたものは、人間存在という現象そのものだと思いました。人間は誰しも、自分の意志とは無縁に勝手に産み落とされるのですが、それでも、生きて行かなければなりません。それはすべての人に共通であり、すべての人に平等です。なので、生まれてしまった人間はみな、自分の存在を誰かのせいにすることはできません(というか、誰かのせいにしたってどうにもなりません。みんなそうなのだし、誰も自分の存在の責任を取れないので)。なので、人間は、自分で自分の人生を生きるほかないのだと思いました。

 「解夏」では、ラストシーンが印象に残っています。隆之は失明という大事件を体験しました。同時に、それではじめて、故郷の風景が自分の中に刻まれたことに気が付きます。

 人間は、失わないと、得ることができない生き物なのだなと思いました。「故郷の風景」は、視力がまだ残っていたり、あるいは、失明の怖れがない日常では、当たり前にあるもので、逆にそんな生活の中では、「故郷の風景」を得ること(=「故郷の風景」が心の中に刻み付くこと)はないのかもしれません。故郷は遠く離れて思うもの、というよりは、遠く離れてみないと(=失ってみないと)、「故郷」というもの自体が人間の中に生まれないのかもしれないと思いました。

 考えてみると、失い、別れ、取り返しがつかなくなってからじゃないと、大切なものを得ることができないということは、哀しいことだと思います。

 「解夏」で描かれていたのものは、そんな人間のせつなさではないかと思いました。


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