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蟹工船/小林多喜二のあらすじと読書感想文

2012年8月10日 竹内みちまろ 参照回数:

蟹工船/小林多喜二のあらすじ


 秋田、青森、岩手、北海道の農民や労働者、斡旋屋に「だまされて」連れてこられた東京の学生らを載せた3000トンに近い蟹工船・博光丸は函館を出航し、オホーツク海に蟹漁に出ました。博光丸に乗り込んでいた監督の浅川は、漁を国家事業と位置づけ、ロシアと「一騎打ち」のつもりで働け、とどなります。浅川は、博光丸と並んでいた秩父丸からSOSの無電が入っても、「余計な寄道せって、誰が命令したんだ。」と艦長の肩をつかみ、秩父丸と425人の乗組員を見捨てました。

 蟹工船は、船中で缶詰ら加工をする工場船であり、航船ではないので、航海法は適用されません。もっとも、工場法も適用されず、不景気と内地の飽和の中で、北海道や外地に儲け口を求めた資本家が、日露戦争を生き延びたオンボロ輸送船や病院船らを蟹工船に仕立て、オホーツク海へ送り込み、沈没したら沈没したで、掛けておいた保険で儲けを出していました。

 博光丸乗組員は「糞壺」と呼ばれる部屋で寝起きしました。「だまされて」連れてこられた学生は、船に乗るまでに、斡旋料のほか、汽車賃、宿賃、毛布代などを取られ、借金が出来ている始末。2日間ボイラーのそばに隠れていた船員・宮口は、腹が減ってどうにもならず、出てきたところを捕まり、浅川からシャツ一枚にされ、2つあるうちの便所の一つに押し込められ、表から鍵をされます。2日後に、便所の中から出された宮口は死ぬ寸前で、それでも、どうしても働かせなければならないと、浅川は宮口を足で蹴っていました。

 博光丸では、出来高が上がらず、人間の身体の限界を労働者よりもよく心得ていた浅川は情け容赦なく、働きの一番少ない者に真っ赤に焼いた鉄棒を押しつけたり、船員どうしを競わせたりしました。しかしそれでも、船員たちは、連日の過労のため、じょじょに、朝に起きることができなくなっていきました。同時に、連日、200人近くが「糞壺」の中で過ごす中、みなの考えが少しずつ同じになっていきました。誰かが「とても続かねえや。」「俺ア仕事サボるんだ。出来ねえ。」などと口にし、浅川が工場を見回った際、ほぼ全員が、のろのろと仕事をする「サボり」が起き始めました。

 東京の日暮里の斡旋屋から送り込まれた一人・山田が死んでしまいました。船員の一人が「山田君は殺されたのです。」と口にします。山田の死があってから、気づかれないようにみなで行う「サボり」が、浅川から怒鳴られてもその場ではおとなしくし、それでいて、一日おきに確実に手をゆるめるという、足並みがそろったものになっていきました。学生たちは、組織図を書き、向こうは浅川をはじめ船長らを入れても10人足らず、こちらは400人だと訴え、「殺されたくないものは来れ!」と呼びかけました。

 海が荒れ、暴風になるとわかって船を出させようとしたことに怒りを覚えた船員たちが、船に戻り、300人が「ストライキ万歳」と叫びました。船長室へ押しかけ、300人の「要求条項」と「誓約書」を出しました。浅川のピストルを叩きおとし、浅川を殴りつけました。しかし、翌日、浅川が無電で呼び寄せた駆逐艦が来て、ストライキはあっけなく鎮圧、9人が連行されていきました。

 労働者たちは、「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分かった。」と口にします。代表9名を引き渡したやり方を全員で引き渡されるべきだったなどと反省します。が、「本当のこと云えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな。」「ん、もう一回だ!」などと口々に告げました。労働者たちが「もう一度」立ち上がったことが紹介され、『蟹工船』は終わります。

蟹工船/小林多喜二の読書感想文


 『蟹工船』は、もう一度立ち上がったことが紹介されて本編が終わったあと、付記があり、そこに、二度目の「サボり」が成功したことや、漁期が終わって戻ってきた船の中で、ストライキをやったのは博光丸だけではなかったことや、2、3の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出てきたことや、「組織」や「闘争」を初めて知った労働者たちが、警察に捕まりながらも、それぞれの場所へ入り込んでいったことが紹介されていました。

 『蟹工船』を読み終えて、当時を生きた人々は、戦後教育で普及する人権や労働に対する意識などを前提にするものとは別の意識を持って生きていたのだなと思いました。また、それゆえに、サボタージュや、ストライキへ向かって行く様子に迫力がありました。労働運動というものは、机上の論や、学者の頭の中から生まれたわけではなく、現場の熱気や、血や、汗から生まれたのかもしれないと思いました。

 また、印象に残ったエピソードがあります。底刺し網を降ろしたり引き上げたりする作業を行うため、8隻積んでいた川崎船が、海が荒れるとわかっていながら出され、うち1隻が行方不明になって3日目に戻ってきた場面です。川崎船は、カムチャッカの岸に打ち上げられ、船員はロシア人家族に助けられていました。言葉は通じませんが、ロシア人の家に、片言の日本語をしゃべる中国人が来て、日本では、金持ちの腹が膨れ、働く人が貧乏になると説き始めました。船員は、ばくぜんと、これがかの「恐ろしい」「赤化」かと思いますが、話の内容には引きつけられていました。日本とロシアは、特に北海道は交流が深く、船がロシアに流れ着くことも珍しくなかったのかもしれません。そんな中で、ロシア語のパンフレットが持ち込まれるなどして、ロシアから労働運動が伝わったこともあったのかもしれないと思いました。


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