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小さいおうち/中島京子のあらすじと読書感想文

2013年7月6日 竹内みちまろ 参照回数:

小さいおうちのあらすじ(ネタバレ)


 2年ほど前に『タキおばあちゃんのスーパー家事ブック』を出版したタキのもとに、若い女性編集者が、次の本の打ち合わせのため訪れます。懐かしい東京の思い出などをからめたエッセイのようなものを考えているようですが、タキが何を書いたらよいのかわからないので話すことを全部テープにとってほしいと告げると、けげんそうな顔をして、やがて来なくなりました。タキは、「奥様やぼっちゃんと過ごした日々には、わたしのたいせつな思い出がすべてつまっている」と、東北での生い立ちから、東京に出て女中として暮らした思い出を、ノートにつづり始めました。

 東北の農村の6人きょうだい生まれたタキは、上の4人はすべて奉公にでており、タキも、尋常小学校を卒業した昭和5年(1930年)、女中奉公のため東京に出ます。「あのころの帝都東京は、美しい大都会だったもの」と語るタキは、当初、「都会の真ん中にある」小説家の小中先生の家に奉公にあがり、小中先生の知り合いの娘・時子に幼い子どもがいて手が掛かるため、タキが14歳の時に時子のいる浅野家の女中にまわります。22歳の時子と、1歳半の恭一と出会います。時子の夫はそこそこの会社に勤めていましたが不況のあおりでクビになり酒に溺れました。しかし、その夫の予期せぬ事故死で最初の結婚が短期間に終わった時子は、恭一とタキを連れていったん実家に戻り、昭和7年(1932年)の暮れ、時子よりも10歳年上で、髪の毛も薄く、見るからに中年という、初婚の平井に嫁ぎます。百貨店に勤めていた平井は、流通が分かる人材として玩具会社に引き抜かれ、平井の会社は戦闘機や爆弾三勇士などをモチーフにした玩具で業績を伸ばしていました。

 平井はお見合いの席で、赤い瓦屋根の洋館を建てることを話し、その話が縁談を受ける決め手になっていました。その洋館は、昭和10年(1935年)、東京の郊外に建ちます。時子は、家事は苦手ですが、モダンでハイカラに着飾り、生来のお祭り好きで、洋館が建ってようやく、コテで時間をかけて髪の毛にウェーブを作り、家でゆっくりと紅茶を楽しむような時間を送るようになります。タキは、洋館で、階段の裏の2畳の部屋をあてがわれました。タキは、洋館を「終の棲家」と思い定め、「奥様、わたし、一生、この家を守ってまいります」と口にします。時子は、「あらいやだ、あなただってそろそろお嫁に行くことを考える年齢じゃないの」と返します。

 平井家では、タキが給仕をする夕食が終わっても、ちゃぶ台を囲んで団欒するのんびりした時間が流れます。平井は、次のオリンピックは東京で決まりだな、などと嬉しそうに話し、平井の言うことにはすべて賛成する時子が、相づちを打ちます。大正12年(1923年)の関東大震災から復活を遂げていた東京は、華やかな都市としての繁栄を謳歌し、昭和10年(1935年)には、「五年後には(オリンピック)東京大会が開かれると、それこそ誰もが思っていた」といいます。

 タキは「あのころのウキウキした東京の気分を思い出すと楽しくなる」と回想します。いよいよ、ベルリンオリンピックの開催と、次回の東京オリンピックの開催が決定しました。ただ、昭和12年(1937年)には、盧溝橋事件から日中全面戦争が始まり、日本は泥沼の戦争に突入していましたが、昭和12年12月には中華民国の首都・南京を占領します。東京では南京陥落が盛大に祝われ、百貨店では歳末の大売り出しに加え戦勝セールが開催されます。銀座はたいへんな人出で賑わい、平井一家も南京陥落の戦勝祝いの提灯行列を見に出かけます。恭一はその夜、日の丸の日章旗を抱いて寝ました。

 クリスマスが近づくころ、オリンピック東京大会の日程が正式に決定します。明けた昭和11年(1936年)の正月3日、玩具会社のデザイン部に勤務する若い板倉正治が、近くにある帝美時代に世話になった下宿の老夫婦に挨拶したついでに、赤い洋館を訪れます。建築にも興味があったという板倉は家の中を隅々まで見て回り、暮れから封切られていた映画『オーケストラの少女』の話や、視力と気管支が弱いため徴兵検査は「丙」だったことなどを話して帰りました。以来、板倉は、たびたび平井家を訪問するようになります。

 同年夏、東京オリンピックの開催が返上になってしまいました。しかし、平井家でオリンピックが話題にあがることはなく、時子が、麻布にいる姉の家の息子の正人が当時中学受験の最難関であった府立高校の尋常科へ合格したことに触発され、恭一の受験に夢中になっていました。恭一は、小学校入学前に高熱を出してから脚が動かなくなっていましたが、小学校に入ると、少し引きずる程度まで回復していました。タキは平井家の最寄り駅から2駅の場所に新設された小学校に通っていた恭一を、時子が出られない日には代わりに送り迎えをしていました。しかし、大きくなるにつれ、恭一は、坂道で手をつながなくなり、4年生のころには、「もう、ついてこないで」とタキに言うようになりました。タキは、男の子たちと学校帰りに水飴をなめながら、死んだ子どもが墓場から出てきて復讐するなど教育上悪いらしいと噂の紙芝居見物に行く恭一を、木の陰からこっそり覗いて様子を確かめ、紙芝居は、恐ろしいものではなく、修身の教科書じみたつまらない内容であるこを確認して、安心したりしていました。

 東京での平和な日々に、戦争の陰が着実に忍び寄ります。平井の玩具会社では、2年前に操業を始めた大工場を閉鎖し、長引く日中戦争の影響で金属が手に入らなくなっていました。平井は厳しい顔をすることが多くなり、心配した時子が、時子の父親から玩具会社に見切りをつけてほかの会社へ移らないかと誘われたことを話します。しかし、平井が断ったことで、「軍需で潤っている会社だっていっぱいあるんですから」と、口けんかになりました。平井は手をあげるようなことはせず、あくまでも口けんかに留まりますが、平井は「恭ちゃんが喜ぶようなものを作るこの仕事が、私は好きなんだよ」といい、経営陣として会社の建て直しに尽力します。また、夏に、暴風雨が起きて電車が止まり、板倉が平井が家に帰れなくなったことを告げに来たことがありました。板倉は、タキの助けを借りてはしごで2階の割れていたガラス窓に板を打ち付けつけます。いったん、駅へ向かいますが、電車がとまっていたため、赤い洋館に泊まりました。

 平井の玩具会社は紙の飛行機などでヒット作を生み出しますが、昭和15年(1940年)になると、平井と時子は、たびたび、金のことで口けんかをするようになります。平井は、国策に従い、貯蓄や倹約を勧め、社交も控え目にするように言いつけますが、さすがに禁止になっていたパーマネントにはしていませんでしたが、生来の派手好きの時子は、結婚式を「てんぷら会」で済ませようというような時風に納得ができず、タキに、「このごろ、旦那様、変わられたわ」とこぼします。「だけどね、タキちゃん。外でご飯をいただきたいわけじゃないのよ。わたしの言い方が悪いのかしら。旦那様も同じようなこと、おっしゃったわ」と告げます。タキが「すみません」と謝ると、「謝らなくていいわ。わたしが欲しいのは、心のゆとりなのよ」と、いくらか後ろめたそうに、ティーカップの縁の金の彩りを撫でました。昭和16年(1941年)の正月、板倉が年始の挨拶に赤い瓦屋根の家を訪れたとき、時子は32歳、タキは24歳、板倉は26歳、平井は45、6歳でした。

 板倉は、「会社員で、二十六で、戦地いは行かない」と言われており、若い健康な男たちがみな戦場へ行っていた時代、縁談は引く手あまたでした。平井から話をまとめるようにさしむけられた時子も、板倉へ縁談を勧めます。縁談をしぶる板倉に、時子は、(板倉さんの、本当のお気持ちをお伺いしたく、○日に、又お訪ね致しマス)とハガキを出し、板倉から(こちらも、本当の所をお伝えしたいと思っておりますから、是非いらして下さい)と返事が来ます。時子は、男勝りな、どこか決意の感じられる着物をまとい、板倉を訪問します。時子は夕方近くに戻りましたが、タキは、時子の帯の模様が朝に出たときと逆になっていることに気がつきました。「なんとなく重苦しい空気が世の中全体に漂っていて、誰も彼もがうんざりした気持ち」でしたが、板倉は、「このたびの聖戦では、丙種合格者も召集されることになったようですので」「お国へのご奉公が終わってから、身を固めたいと思います」と縁談を断りました。しかし、その重苦しい空気は、昭和16年(1941年)12月8日に、日本軍が真珠湾を攻撃したことで一気に吹き飛び、東京は、晴れやかな戦勝ムードで満ちあふれました。タキは、「ああ、始まるのだ。新しい時代が始まるのだ」と興奮します。

 アメリカとの戦争で「世の中がぱっと明るく」なりましたが、初戦で圧勝してからの日本軍は各地で負け続けるようになります。戦況は国民には知らされませんでしたが、終戦の年には、理系大学生だった正人や、板倉など、兵隊に取られないといわれていた男たちがみな召集されます。弘前で入営することになった板倉は、平井家に挨拶に来ました。その翌日、時子が、「タキちゃん、ちょっと、出かけるわ」と、タキに声を掛けます。どちらへと聞いても「ちょっとね」、いつ戻るのかを聞いても「ちょっとよ」との答え。タキは、頭の中に、「稲妻のようなもの」が走った気がしました。

小さいおうちの読書感想文(ネタバレ)


 『小さいおうち』はここからクライマックスに突入するのですが、読書感想文に移りたいと思います。

 『小さいおうち』は読み終えて、市井の人間の小さな視点の重みを感じました。作中に語り手として登場する、タキが母親に代わりに育てた甥夫婦の次男の健史は現代を生きる若者で、もちろん、ミッドウェイ海戦も南京大虐殺も知っています。しかし、それは、歴史の教科書の中で知っているに過ぎないことで、戦前の東京の華やかな雰囲気や、ボーナスを楽しみにし、“お受験”に血眼になる山の手のマダムたちの暮らしも、歴史という意味ではミッドウェイ海戦と同じなのですが、教科書に載っていないために、垣間見ることすらできません。健史は、タキの死後、タキの手記を読み、未開封の手紙を見つけます。赤い瓦屋根の洋館とまったく同じ作りのイタクラ・ショージ記念館を訪れ、来館者ノートに平井恭一の名前を見つけます。80歳近くになった恭一に会います。が、一方で、健史は、今なお謎に包まれているイタクラ・ショージについて、イタクラ・ショージ記念館が健史の大伯母であるタキが愛した赤い瓦屋根の洋館であり、平井時子が板倉正治のミューズであったことを記念館の学芸員に告げ、それが作りこそ同じですがタキが愛した赤い瓦屋根の洋館とはまったく別の来館者たちに見学されるためだけに作られたイタクラ・ショージ記念館の中で、研究者たちの手によって、説明されていくことに、「なんの意味があるだろう」と感じました。健史は、タキや、時子や、板倉の思い出と、赤い瓦屋根の洋館が、教科書に載ってしまうことに違和感を感じ、健史が感じたことこそ、歴史の教科書に掲載される事実と、市井の人間の小さな視点から見えた世界の価値の違いかもしれないと思いました。

 戦前の東京は美しく、吸った者にしかわからない空気が流れていたようです。そんな場所で、タキは、心から時子に尽くし、時子は、タキが近所の人から褒められると、「あらだって、嫁入り前から、もうずっといっしょなんですもの、そんじょそこらの女中さんとは、年季が違ってよ」と、自慢げに目を細めます。タキは、そんなときに至福を味わいます。現在、「女中」という言葉は不適切ともされますが、いい悪いは別にして、タキが生きた東京には、契約だとか、賃金だとか、不公平だとか、自己実現だとか、権利だとか、義務だとか、要するに、戦後になって定着し、今なお世の中で幅を利かせている、アメリカ的な価値観や考え方とは無縁の、素朴と誠実さを美徳とし、素朴であり誠実であることを当たり前のこととして生きる、よき日本人の心があったのだと思いました。

 タキは、最初に奉公した小中先生から、女中に必要な能力は、主人が口には出せなかったり、行動には移せなかったりすることに機転を利かせ、主人のためになるように行動し、咎められれば自分一人で責任を負う「ある種の頭の良さ」であることを教わりました。12、3歳のタキは、小中先生から、イギリスの女中の話を聞きます。その女中は、論文を書きあぐねていた主人に仕えていましたが、主人が友人から預かった論文を“間違えて”暖炉にくべてしまいます。しかし、そのため、主人は、友人よりも後に完成させた論文を友人よりも先に発表することができました。そのときのタキには小中先生が何を言っているのかわからなくても、後年、タキの中に「稲妻のようなもの」が走ったエピソードは読みごたえがありました。

 また、健史がタキの遺品の中から、時子が板倉に宛てた未開封の手紙を見つけたことがきっかけで、タキが時子の手紙を板倉に渡していなかったことが発覚します。健史は、タキの手記を思い起こしますが、タキが死んでしまい、時子は空襲で亡くなり、板倉正治も死んでしまった今となっては、夜行で弘前へ向かう日の午後にやってきた板倉と時子の間で何が話されたのかは謎のままです。未開封の手紙を66年間も大切に持ち続けたタキの心も、板倉の出征を聞いて「南方だろうからな、行くのは」と付け加えた平井の心の内も誰にもわかりません。

 歴史というものは、事実を精査して教科書に載せることはできますが、その時その場所で生きた小さな人間のたちの胸の内や時代に流れていた空気の味わいは、教科書には載せることはできず、市井の人々の心は埋もれ、やがてはなくなってしまうのかもしれません。でも、本当に価値のある“日本人の歴史”は、素朴に、かつ誠実に生きたそんな小さな人々の人生の積み重ねが築くのかもしれないと思いました。


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