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流れる星は生きている/藤原ていのあらすじと読書感想文

2013年1月9日 竹内みちまろ 参照回数:

流れる星は生きているのあらすじ

 
「流れる星は生きている」(藤原てい)は、戦争中に新京(長春)にいた著者が、3人の子どもを連れて、満州(中国東北部)から引き揚げ、朝鮮半島の38度線を越え、アメリカ軍に保護、その後、釜山から引き揚げ船にのり博多へ入港し、故郷の長野県諏訪地方へ帰りつくまでの行動記です。

 ていさんは、県立諏訪高等女学校卒業後、気象庁勤務の藤原寛人(作家の新田次郎)と結婚し、満州へ渡りました。夫は、新京の南端にある南嶺(なんれい)の観象台(気象台)に務めていました。れいさんは、1945年(昭和20年)8月9日の夜、観象台から帰って来た夫から関東軍の家族がすでに移動を始めていることを知らされます。政府の家族も続くように言い渡されます。夫は、まだやることがあるからと、ていさんに3人の子どもを託しました。長男の正広さんは6歳、次男の正彦さんは3歳、長女の咲子さんは生後1か月でした。

 ていさんらを含む観象台の家族たちは「観象台疎開団」と自らを名づけ、汽車の中では、集団行動を取りました。奉天を過ぎ、満州と朝鮮の国境・鴨緑江の鉄橋を渡ります。いまだ満州に近い北朝鮮北部の宣川で列車を降り、宣川農学校の校舎に収容されます。そこで、8月15日の終戦を迎えました。

 8月18日の夜、ていさんの夫を含む8名の男たちが家族に合流します。その後、8月中に、38度線を境に交通が遮断され、平壌以南へは列車が行かないという連絡がもたらされます。南下が不可能ならばと、主に満鉄関係の家族たちは生活基盤を持っている満洲へ帰るために北上し、38度線を越えようとする人たちも少数ながら、いました。

 10月、18歳から40歳までの日本人男子が汽車で平壌へ送られることになり、夫が旅立ちました。シベリヤへ送られることも予想していた夫は、「すぐ用意してくれ、金はいらない、必要品だけそろえてくれ。」と告げます。

 10月28日に、夫は汽車で旅立ちました。ていさんは、子どもの服の裏に縫い付けるなどして300円のお金を持っていましたが、夫が汽車で送られたあと、疎開団の人から、実は「藤原さんにずっとまえ、市場で四十円かしてあったんですが……」と言われます。相手の顔を見るのも嫌になりましたが、「きょうからしっかりしなければ。」と強く感じます。初めから夫と別れてきた妻たちは、自分たちと同じ境遇になり泣き暮れるていさんたちを、「すこし高いところからながめおろして、何かひそひそ話をしてい」ました。

 1月、日本人学校の開校が許されます。紙も鉛筆もありませんでしたが、子どもたちは喜び勇んで通学しました。2月に入ると、日本人の男たちが引き揚げて来るようになります。が、ほとんど死人で、死ぬために帰って来たような形になり、また、しらみと発疹チフスと共に帰ってきました。正彦さんが肺炎と診断されます。

 日本人は、近づいてくる朝鮮人はみな警戒し、朝鮮人の傍若無人な振る舞いにも抵抗しない日々が続きます。一方、日本人に好意を寄せる朝鮮人は決して日本人には近づかず、すれ違いざまにそっとリンゴを渡してくれたりしました。ていさんは、夫が、八路軍の雑役夫に雇われ、発疹チフスにかかって八路軍の病院に入院したと聞きました。

 5月15日、日本人解放のニュースが入ります。喜ぶと同時に、配給の米が停止されました。日本人の中でも、貧富の差ができ、お金がなくなる日本人も出てきます。連日、日本人会本部に各団体の団長、副団長が集まり、朝鮮の地図を開いて、引き揚げ計画を話しあっていました。なるべく宣川にいる日本人がいっしょに事故のようないよう引き揚げようと協議していましたが、軍の貨車で何両も荷物を持ってきていた裕福な団体は、案内人を雇うなどして、独自に出発していきました。各団体が浮き足立ちます。

 観象台疎開団から、子どもがいない身軽な人など12名が脱退。残留組は18名となり、ていさんは副団長でした。平壌駅は日本人であふれかえっていて、駅頭で飢え死にしてしまうという情報もありましたが、8月1日に、平壌へ向かう汽車に乗りました。

 平壌に着き、そこからまた、貨車で新幕まで移動します。貨車を降りると、真っ暗闇で風雨が荒れていましたが、危険があるため明かりをつけることもできず、夜中に歩き始めました。

 ていさんは、3人の幼子を連れ、ときに、2日2晩も眠らず、移動を続けます。力尽きて倒れる人もあり、牛車を雇ったりしながら、歩き続けます。朝鮮の農家に宿を乞い、一晩、馬小屋に泊めてもらい、保安隊に見つからないよう、早朝に馬小屋をあとにしたりしました。赤土の泥にまみれて歩き、川を徒歩で渡り、38度線を越えればアメリカ軍がいると聞いていました。

 38度線に着くと、ソ連兵が何やら相談をした後、遮断機を開けてくれました。ていさんは、アメリカ軍のトラックに保護され、テントに収容されます。ていさんの足の裏は完全に掘り返され、アメリカ軍は、ていさんの足の裏から発掘物を取り除きました。正彦さんの足の裏も、ひどく化膿していました。

 貨車で釜山まで運ばれ、引き揚げ船に乗ります。博多に着きますが、下船許可が下りず、船の中で死ぬ子どもたちもたくさんいました。

 昭和21年(1946年)9月12日、ようやく博多に上陸したていさんは、引き揚げ証明書を交付されます。毛布、子ども服、下駄、乾パン、ひとり5枚ずつの外食券らを渡され、汽車で長野県の上諏訪駅に到着。4年ぶりに会ったていさんの2人の弟は、ていさんの姿に驚がくし、ていさんは両親に抱きかかえられると、「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ。」「もうこれ以上は生きられない。」と、きりの湖の中にがっくり首をつっこんで、深い所へ沈んでいました。

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流れる星は生きているの読書感想文


 読み終えて、人間というものは、もう行動するしかないという状況に置かれたとき、エゴむき出しで、なりふり構わず、自分が生き延びるために他人をも蹴落とし、そして、利用するのだなと思いました。

 汽車に乗っているとき、停車駅で、ていさんが水筒を持って外に出ても、いつも屈強な男たちに跳ね飛ばされ、のどがカラカラの幼子のもとに帰って、ごめんね、またくめなかったの、と言葉を掛けていました。同じ車両では若い夫婦が、バケツに水をあけ、顔を洗い、おしげもなく水を捨てたりしています。また、状況が悲惨になってくると、もっと感情がむき出しになり、ていさんも、なりふりかまっていられず、ていさん自身も、自分のことを男のようになっていったと感じていた場面もありました。

 人間にエゴむき出しにさせてしまう悲劇を起こすことを、繰り返さないことの大切さを感じました。

 また、過酷な状況に置かれた時、人間の感情はむき出しになるのかもしれません。ていさんは、新京駅へ行くようにていさんへ告げた夫が、まだやることがあるから残ると言ったとき、見栄の為に家族を捨てるのか、と恨んでいました。夫の心や、ていさんの心については、他者がどうこういえることではありませんが、そのこともかえって、むき出しになる感情というものは、いいとか悪いとかではないのだなと思いました。

 ちなみに、「流れる星は生きている」というタイトルは、引き揚げの途中、ていさんが出会った保安隊の金さんという人が、「だれも知らない歌を、ご紹介しましょうか。」と口ずさんだ歌の中のフレーズです。金さんはかつて日本の航空隊にいたといい、作詞・作曲共に、南方に居た時の戦友によるもので、作詞者、作曲者は2人とも終戦間際に死んだとのこと。

 小学校にも、中学校にも、「流れる星は生きている」を生徒に読み聞かせていた先生がいたことがずっと心に残っていて、今回はじめて、自分で読んでみました。

 ラストシーンの「もう死んでもいいんだ」「もうこれ以上は生きられない」という叫びには、説明不用の説得力があります。読み継がれるべき本だと思いました。


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