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憂国/三島由紀夫のあらすじと読書感想文

2011年2月3日 竹内みちまろ 参照回数:


 「憂国」(三島由紀夫)のあらすじと読書感想文です。

 「憂国」青年将校が切腹をする物語です。妻も後を追って自害します。人間を描いたというよりは、人間をとおして、一つの美意識を描いたように感じました。まずは、あらすじから。

 あらすじといっても、「憂国」には、小難しいストーリーがあるわけではありません。二・二六事件の三日後に、仲間に置き去りにされた青年将校が切腹をします。妻が後を追います。

 「憂国」は何度も読んでいるのですが、そのたびに、新しい感想が生まれる作品です。今回、読んで印象に残ったのは、美意識、あるいは、美学ということでした。ただ、「憂国」に描かれている青年将校も、妻も、「憂国」という作品のなかで、思想なり、美学なりを自覚しているわけではないと思いました。思想なり、美学なりを持たない人間を描くことによって、作者である三島由紀夫が、自分の中にあるなにがしかを描いたという気もしました。

 「憂国」は、二人の自刃を告げる報道記事のような文章から始まります。その文章も「烈夫烈婦の最期(さいご)、洵(まこと)に鬼神をして哭(な)かしむの概あり」という感じです。二・二六事件が発生した一九三六年当時であればこれが普通だったのかもしれませんが、戦後の人間が読むと、どこか大仰で、時代がかった印象があります。

 「憂国」の青年将校と妻は、「実に健康な若い肉体を持っていた」非の打ち所のない「美男美女」。専業主婦である妻は、「麗子」と名前で書かれますが、「憂国」では、青年将校は名前などの人格を表すことに通じる言葉ではなくて「中尉」と書かれます。結婚して新居を構えた青年将校は帰宅するなり妻を押し倒します。妻は一か月後には喜びを知ります。青年将校もそれを知って喜びます。そんな二人の様子は、「これらのことはすべて道徳的であり、教育勅語の『夫婦相和シ』の訓(おし)えにも叶(かな)っていた」と描写されます。「教育勅語」なり、「軍人勅諭」なり、そういったものが当時の人々にとっては大切であったことはわかるのですが、戦後の人間としては、教育勅語にかなっていたので「道徳的」と言われても、あまり、ピンときません。といいますか、別に、若夫婦が激しい情交をすることをとやかく言う人はいないと思います。後ろめたいことはなにもなく誰からも非難されないようなことを、わざわざ、「教育勅語」にかなっていた、だから道徳的だと描写しているところが、冒頭の報道記事的な文章とともに、「憂国」という作品に、どこか、読者に感情移入させない、ガラス窓をとおしてのぞき見る対岸の光景や、幻灯機にかけられたフィルムの中の出来事という枠組みを与えているような気がしました。

 しかも、二人の物語は、「二人の自刃のあと、人々はよくこの写真をとりだして眺(なが)めては、こうした申し分のない美しい男女の結びつきは不吉なものを含んでいがちなことを嘆いた」というふうに、「人々」の視線を利用して、相対化といいますか、どこか物語化されています。ちなみに、「この写真」とは「新郎新婦の記念写真」です。青年の清らかさや、やさしく貞淑な妻がまとった艶やかさや高貴さが強調されればされるほどに、読者は感情移入できなくなっていくような気がしました。

 「憂国」は三人称で書かれています。読者は、登場人物に感情移入して物語世界を旅するというよりは、箱庭の中に作られた完成された世界を外から眺めるような感じになるのではと思いました。

 「憂国」のなかで、おやっと思った個所がありました。自決することに決めた青年将校は、わざわざ妻の麗子に「いいか、二階に床(とこ)をとっておいてくれ」と告げます。その二階の床の上に、青年将校は大の字になります。窓の外から、自動車のタイヤがきしむ音やクラクションが塀に反響する音が聞こえてきます。外の世界の気配を感じながら、青年将校は、薄暗い部屋の中で、「あいかわらず忙しく往来している社会の海の中に、ここだけは孤島のように屹立(きつりつ)して感じられる」。青年将校と麗子が住む世界は、箱庭ではなくて、「孤島」だったのかなどと思ったのですが、おやっと思った個所はその直後でした。

「自分が憂(うれ)える国は、この家のまわりに大きく雑然とひろがっている。自分はそのために身を捧(ささ)げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫(いさ)めようとするその巨大な国は、果たしてこの死に一顧を与えてくれるかどうかわからない。それでいいのである。ここは華々しくない戦場、誰にも勲(いさお)しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だった」

 外の世界から断絶された孤高な空間を感じていながら、急に、「自分が憂(うれ)える国は、この家のまわりに大きく雑然とひろがっている」などと、大風呂敷を広げ始めました。

 そもそもに、この青年将校は何を憂えているのだろうと思いました。切腹を決意した理由は、「反乱軍」の「汚名」を着せられた仲間を討伐することは自分にはできないという、いわば、義理と人情の板挟みであったはずです。それが、ここにきて、いきなりに、自決が「諫死」になってしまっています。

 「諫死」とは、伝統的な日本の風習で、主君を諫める諫死状を書いて腹を切ることです。織田信長の教育係だった平手政秀は信長を諫める諫死状を書いて腹を切ったといわれています。平手の場合は教育係としての責任という問題がからむので話がややこしくなるのですが、主君というのは、突きつめれば、天皇になります。諫死状を書いて死ぬ理由は、天皇は進言をする対象ではないからです。また、諫死状が天皇に届くのかどうかを見届けない理由は、天皇は返事をもらう対象ではないからです。

 「憂国」から話がずれてしまいましたが、青年将校が自決を決意したのは、直属の上司から受けるであろう「討伐命令」は、上司の上司をたどれば最後に天皇に行きつくからです。上司の命令=天皇の命令という構造が軍にはできていました。青年将校は、天皇からの命令が出たら従わないわけにはいかない、しかし、自分には仲間を討つことはできない、なので、腹を切るということです。

 しかし、床の上に大の字になった青年将校は、いきなり、そのことを忘れて、国を憂いはじめます。そもそもに、青年将校は、何が不満なのだろうかと思いました。政治、社会、軍部、二・二六事件勃発後の軍上層部の対応などに不満を持っていたのでしょうか。かりになにがしかの不満があったとしても、「憂国」という作品の中には書かれていないので、読者にはわかりません。また、(当時の)軍人というものは、いわゆる、上官から命令が出たら何も考えずにそれを速やかに実行するマシーンでなければならない、という方針であったような気がします。捕虜を殺せという命令が上司(つきつめれば天皇)から出たら、何も考えずにすぐに引き金を引くのが優れた軍人です。人間として国を憂えることはわかるが、軍人である以上は発言は慎み軍務に励むべきである(=上司から言われたことをすみやかに遂行するべきである)と考え発言や行動を慎んでいた軍人もたくさんいたはずです。

 しかし、この青年将校は、そういった発想をするわけではなく、いきなり、国を憂いだします。何をどう憂えているのかさっぱりわからないのですが、何の脈絡もなく、次に諫死を持ち出します。そして、最後には、孤独な戦場と結論づけてしまいます。確かに、言っていることはかっこいいのですが、「魂の最前線」にいたっては、もう、なげやりになって、考えることをやめてしまったというふうにも解釈できるような気がします。この人、思想的には生きていないと思いました。もちろん、軍人としてはそれで優秀なのでしょうが。

 「憂国」という作品名も先に引用した個所から取られていまして、ここは大切だとは思うのですが、何度読んでも何がなんだかさっぱりわからなくなりました。

 あと、「憂国」には関係ないのですが、こういったいきなり大げさな話を持ち出したり、何の脈等もなく話を(ある意味では)すりかえたりする書き方や、なげやりになってしまったりする展開は、「中国行きのスロウ・ボート」(村上春樹)でも感じました。ただ、村上春樹の場合は、書きたいこと、語りたいこと、伝えたいことが作家の中にはあるのですが、それを書かずに伝えるために、あえて、なげやりになっているような気はしました。

 逆に、「憂国」には、三島由紀夫が描きたかったことが全部書かれているような気がします。

 「憂国」で三島由紀夫が描きたかったのは、美意識ではないかと思いました。青年将校は、自分の死に疑問を持っていません。ある意味では武士道を規範にして生きていた古きよき時代の侍です。死ぬべきときが来たので死ぬ、ただ、それだけです。「正解」が自分の外側に存在する「聖書」の中にすべて書いてあると受け入れているキリスト者と同じかもしれません。

 ただ、麗子は、自分の死には疑問は持っていないのですが、麗子は「正解」を知りません。

「苦しんでいる良人の顔には、はじめて見る何か不可解なものがあった。今度は自分がその謎(なぞ)を解くのである。麗子は良人の信じた大義の本当の苦味と甘味を、今こそ自分も味わえるという気がする。今まで良人を通じて辛うじて味わってきたものを、今後はまぎれもない自分の舌で味わうのである」

 なぜ「はじめて見る何か不可解なもの」や「謎」と書いておきながら、それが苦く、同時に、甘いものであることがわかるのか、あるいは、認識しているのかは不明ですが、麗子は、自分にはわからない世界へ自分が行こうとしていることを感じています。自分の中ですべてが完結してしまっていた青年将校とは違うところかもしれません。この場面の麗子の描き方は、同じ三島由紀夫の「橋づくし」にも共通しているような気がしました。

 青年将校と麗子の思想や行動は、それはもう、どうあるべきかとか、何が正しいとかいうレベルのことではないと思いました。そもそもに、二人とも、思想という意味では何も持っていなくて、同時に、自分の行動には疑問を持っていないので、読者は、二人の思想や行動に口を挟むことができません。

 「憂国」を読み終えた感想としましては、ある一つの美意識を突き付けられたという気がしました。美意識も、何が美しいのかはそれはもう人それぞれですので、他人が口を挟むことはできません。結論としましては、「憂国」はもう、たとえ読者といえども、口出しはできない作品だと思いました。完璧な箱庭と言いましょうか、孤島と言いましょうか、もう完成された世界です。

 「憂国」では、豊穣の海第二巻「奔馬」のように読者の感情をぐいぐいと引き寄せて操作してしまうような書き方はしていないのですが、それゆえにいっそう、「憂国」という完成された世界を描いた三島由紀夫は、やはり、天才なのだなと思いました。


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