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女生徒/太宰治あらすじと読書感想文

2013年6月17日 竹内みちまろ 参照回数:

女生徒のあらすじ


 雑木林の前の家に住む「私」は、「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」といいます。「朝は、なんだか、しらじらしい」「いやだ、いやだ。朝の私は一ばん醜い」などと意識を走らせます。「朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう」と続き、「朝は、意地悪」という意識にたどり着きました。そんな「私」は、「お父さん。」と小声で呼んでみます。「私」の父親は他界しており、「私」は、夏が近くなったことを認識し、「お父さんの死んだという事実が、不思議になる。死んで、いなくなる、ということは、理解できにくいことだ」と思いを馳せ、嫁いだ姉や、別れていった人々のことを思います。

 「私」は、朝早くから誰かの縁談のために奔走する母親を、自分が小さなころから人のために尽くす人で、勉強ばかりで社交が苦手だった父親とは、違ったものを持っていましたが、お互いに尊敬しあっており、「醜いところの無い、美しい安らかな夫婦、とでも言うのであろうか」とふと思います。しかし、すぐに、そんなふうに思った自分を「ああ、生意気、生意気」とちゃかしました。

 「私」は、出がけに門の前の草を少しむしり、「お母さんへの勤労奉仕」といいます。畑の道を通りながら絵がしきりに描きたくなり、一人で見つけた神社の脇にある小道を通って電車の停車場へ急ぎます。車内で空席を見つけ、道具を置きましたが、「眼鏡の男の人が、ちゃんと私のお道具をどけて席に腰掛けて」しまい、「あの、そこは私、見つけた席ですの。」と声を掛けますが、男性は苦笑して新聞を読み始めました。「私」は、「よく考えてみると、どっちが図々(ずうずう)しいのかわからない」と思案します。しかたなく、吊り革に掴まりながら雑誌を読み始めますが、「経験の無い」「私」は、「私」から本を読むことを取ってしまったら「泣きべそをかくだろう」と思い、雑誌の中の「若い女の欠点」を読むうちに、「自分のことを言われたような気がして恥ずかしい気にも」なります。席が空いたので座ると、隣に子どもを背負った「おばさん」がいて、「年よりのくせに厚化粧をして、髪を流行まきにしている。顔は綺麗なのだけれども、のどの所に皺が黒く寄っていて、あさましく、ぶってやりたいほど厭だった」と嫌悪感を示します。しかし、すぐに、「人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る」と思考を巡らせます。

 登校すると、持っていた古い雨傘がクラスの大歓迎を受け、その話を聞き知った伊藤先生から、展覧会に出す絵のモデルを頼まれ、30分だけと承諾します。伊藤先生は「話がねちねちして理屈が多すぎるし、あまりにも私を意識している故か、スケッチしながらでも話すことが、みんな私のことばかり。返事するのも面倒くさく、わずらわしい」などと、思い浮かべます。そのうち、「ああ、こんな心の汚い私をモデルにしたりなんかして、伊藤先生がばかに見えて仕様がない。先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない」と思います。「だまって同じ姿勢で立っていると、やたら無性に、お金が欲しくなって来る」

 放課後に、お寺の娘のキン子と、こっそり、ハリウッドに行って、髪の毛をセットしてもらいます。キン子とは席が隣同士ですが、キン子が「私」のことを「一ばんの親友」と皆に言う一方、「私」は「親しくしてあげているわけでもないのに」と思います。キン子と別れ、バスに乗ると、襟の汚れた、お腹の大きな女を見かけ、「雌鶏」と嫌悪します。が、「ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変わらないのだ」と思います。バスから降りた「私」は、「どうも乗り物は、いけない。空気が、なまぬるくて、やりきれない。大地は、いい」と思います。「お父さん、お父さん。夕焼けの空は綺麗です」と呼びかけ、「『みんなを愛したい。』と涙が出そうなくらい思いました」

 家に帰ると、大森の今井田さん夫婦と、7歳の良夫が来ていました。「私」は、客に出す夕食の支度をします。「私」も一緒に夕食を食べますが、「今井田さんの奥さんの、しつこい無智なお世辞には、さすがにむかむかして」、料理が「私の窮余の一策なのですよ」などと口にすると、今後は、「窮余の一策とは、うまいことをおっしゃる」と手を打たんばかりに笑いました。母親は「この子も、だんだん役に立つ様になりましたよ」と口にします。「私」は、「お母さん、私のかなしい気持、ちゃんとわかっていらっしゃる癖に」などと、思います。家から帰る今井田夫婦と、用事があると連れ出される母親を門の所で送った「私」は、母親を連れ出すあつかましさに今井田夫婦を「ぶんなぐりたい気持」がして、ひとり、「泣いてみたくなってしまう」

 「私」は、座敷の掃除をして、お風呂を沸かします。風呂からあがり、部屋に戻って、机の前にすわって頬杖をつきながら、机の上の百合の花を眺めます。母親が戻り、母親から、見たいといっていた「裸足の少女」という映画を見てもいいが、代わりに今晩、肩をもんでくださいと言いつけられます。「裸足の少女」を見たいと思っていた「私」ですが、このごろは遊んでばかりいたので遠慮し、母親はそのことをちゃんし察して、「私に用事をいいつけて、私に大出をふって映画見にゆけるように、しむけて下さった」と喜び、「ほんとうに、うれしく、お母さんが好きで、自然に笑ってしまった」。洗濯を済ませ、風呂場の掃除をすませ、寝間着に着替えていると、床について目をつぶっていた母親が、「夏の靴がほしいと言っていたから、きょう渋谷へ行ったついでに見て来たよ。靴も、高くなったねえ。」と声を掛けて来ました。「私」は「いいの、そんなに欲しくなくなったの。」と答えますが、「でも、なければ、困るのでしょう。」と問い掛けられ、「うん。」と答えます。私は、「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ」と思います。

女生徒の読書感想文


 「女生徒」を読み終えて、女性読者はどんな感想を持つのだろうと思いました。この読書感想文を書いている筆者は男性ですが、「女生徒」は、この時代、この年代の女性って、こんなふうに日常を感じているんだと思いました。感覚的で、感情的なのですが、それは豊かな内面世界での話で、外面的には笑顔を絶やさず、多くの人から好かれているようです。また、思考が、急に、幸せだとか、人生だとか、大人になることとかいう大きな世界へ向けられたかと思うと、隣の席に座る身重の女性を汚いとののしったりします。しかし、次の瞬間には、その女性の汚さは、その女性個人に固有なものではなく、女という性が生み出すもので、自分もいずれ、その汚さをまとうことになることを嫌悪していたりしました。

 「女生徒」に描かれていた女性の感性の流れといいますか、意識の流れというものは、時代を問わず、普遍的なものがあると思いました。太宰は、職業作家として、あるいは芸術家として、女性の感性や意識を取材し、理性を持ったまま、「女生徒」を書いたのか、それとも、感性のままに書けちゃったのかが気になります。「女生徒」は、「斜陽」よりももっと感受性に満ちた作品だと思いました。同時に、ストーリーやドラマが展開するわけではないので、それだけ、「おんな」というものが感じられる作品でした。ただ、それはあくまでも、太宰が描いた「おんな」というものでもあります。もちろん、小説はフィクションですので、作中に登場する「おんな」が、現実世界に存在する「おんな」に即していなければならないというわけではないのですが、「女生徒」の「私」がみょうに説得力を持った女性に思えたので、女性読者がどのような感想を持つのか、気になりました。


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