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中国行きのスロウ・ボート/村上春樹のあらすじと読書感想文

2011年1月17日 竹内みちまろ 参照回数:


 「中国行きのスロウ・ボート」(村上春樹/中公文庫)という小説を読みました。村上春樹さんの作品は「ノルウェイの森」、「1Q84」に続いて3作品目です。「中国行きのスロウ・ボート」は、文体や、語り方に独特の雰囲気がある作品だと思いました。簡単ですが、あらすじと読書感想文を書いてみたいと思います。

 まず、冒頭を引用します。「1」という章番号のあとに以下の一文が書かれています。

「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」

 いきなり疑問からはいっていました。エッセイやコラムではなくて、小説のつもりで「中国行きのスロウ・ボート」を読み始めましたので、個人的には、エッセイやコラムのように思えた語り方に、やや、面食らいました。

 読み進めると、次の行に「この文章は、そのような、いわば考古学的疑問から出発する」と書かれています。

 語り手が「中国行きのスロウ・ボート」という小説のことを「この文章」と呼んでいるので、現在進行形で進む物語ではなくて、物語世界の全てを見届けた上で回想として語っていることがわかりました。

 また、「考古学的疑問」とあり、「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」という冒頭の疑問は、個人の体験や、個人史的な疑問ではなくて、例えば、遊牧騎馬民族とか、遣隋使とか、鎖国をしていた日本が欧米と最初に正面から対峙したペリーの黒船艦隊など、そういったレベルの疑問なのだと思いました。

 つまり、「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」という問いかけの主語は、「我々」とか、「日本」とか、「何何時代の人々」とかいうレベルなのだなと思いました。

 しかし、読み進めると、4段落目から、語り方の温度差ががらっと変わり、急に「僕」が登場しました。しかも、語る内容は、ひるになる。

 4段落目は、「一九五九年、または、一九六〇年というのが僕の推定である」という文から始まります。それは文脈では「最初の中国人に出会った」年のことのようです。しかし、「考古学的」などと大風呂敷を広げておいて、いきなり、個人史へ話を持っていってしまっているということでしょうか。最初の3段落と4段落目以降の、語り方の意識レベルの違いや、語られる内容の温度差などに、とまどいました。

 しかも、読み続けると、「どちらでもいい」、(一九五九年と一九六〇年に違いは)「まるでない」と言っておきながら、「タイムマシーンに乗ってその時代に戻ることができたとしても、一九五九年と一九六〇年を見分けるためには僕はそうとう苦労しなくてはならないだろう」と語っています。

 つまり、そうとうの苦労をすれば一九五九年と一九六〇年に違いを発見することができると言っているわけで、語り手は、最初の中国人に出会った年が一九五九年であろうと一九六〇年であろうとどちらでもよいと言っておきながら、一九五九年と一九六〇年には明確な違いがあると断言しています。

 どちらでもよくないじゃん。

 しかも、最初の中国人に出会った年が一九五九年であるのか一九六〇年であるのかという問題意識から、「一九五九年という年」と「一九六〇年という年」に違いがあるのか否かという問題意識にすりかえているようにも思えます。

 そのあと、いきなり、「そう、それはたしかヨハンソンとパターソンがヘヴィー・ウェイトのチャンピオン・タイトルを争った年だった」と決定づけてしまいました。

 おそらくはボクシングのことを言っているのだと思いますが、ボクシングに詳しくないのでなんともいえないという事情はあるにせよ、例えば、モハメッド・アリとか、マイク・タイソンとかならわかるのですが、「ヨハンソンとパターソン」と言われても、正直なところ、そんなやつ知らねえよ、となってしまいます。

 お前小説家だよ、そんなやつの名前出すなよ、と勝手な読者としては思ってしまいました。

 ただ、「中国行きのスロウ・ボート」を最後まで読み終えて、なげやりなのではなくて、なげやりなふうを装っているのような気はしました。

 ニーチェふうに言えば、人間には「私」の中に「ほんとうの私」というものがいるそうです。その考え方を適用するとすれば、「中国行きのスロウ・ボート」の語り手は「私」の中にいる「ほんとうの私」の存在に気がついている、言葉を換えれば、「物語」の中の「ほんとうの物語」を見ている。

 しかし、この語り手は、それは語らない。「ほんとうの物語」を意識しながらも、それでもなお、語らない。

 「中国行きのスロウ・ボート」は、それでもなお、な小説だと思いました。

中国行きのスロウ・ボート/村上春樹の読書感想文


 「中国行きのスロウ・ボート」(村上春樹)は、時間軸をいきなり10年単位で飛躍させたり、「一九五九年」と「一九六〇年」という具体的な年にこだわっていながら、回想では、誰と誰がチャンピオンベルトを争った年だとか、「ある夏休みの午後」だとか、「高校三年生の秋」だとか、数字で表す年ではなくて、印象的な出来事や、追憶の中の時間や、個別の季節を用いて、語り手である30歳を過ぎた一人の「男」である「僕」が、「僕」の回想の物語を語ります。

 読み進めるなかで、なんといいますか、あいまいさを感じました。

 本文中にも「もっとも、たいていの僕の記憶は日付を持たない。僕の記憶力はひどく不確かである。それはあまりにも不確かなので、ときどきその不確かさによって僕は誰かに向かって何かを証明しているんじゃないかという気がすることさえある」と書かれています。

 ただ、そのあいまいさなのですが、回想の中で語られる小学生だった「僕」や、高校生だった「僕」や、大学生だった「僕」は、持っていなかったような気がします。回想の中の「僕」は、一言で言えば、純粋だと思いました。

 いっぽうで、回想の中の「僕」とカップリングされる人物たちも印象に残りました。

 純粋な小学生の「僕」に質問をした中国人教師は、アイデンティティーや、ナショナリティーや、尊厳というものを背負って生きています。

 高校生の「僕」も、「昔のことだし、それにどちらでもいいことなのだ」とは言いますがそれでも机に落書きをしたのかどうかにこだわります。いっぽうで、「僕」の彼女は、「よく覚えてないわ」と質問にまともに取り合わず、あっけらかんとしています。

 大学生の「僕」は生活や人生や自分自身というものになんの疑問を持っていないようですが、「僕」がデートに誘った中国人の女の子は、自分自身の存在に原的負荷を持っています。

 「僕」は、素朴に、今、目の前にある時間だけを生きてきたように感じました。同時に、純粋な目で観察していたような気がします。

 しかし、クライマックスになって、それが一転しました。「5」という番号がふられた最後の章では、回想の中にいる純粋に生きていた「僕」と、30歳を過ぎた一人の男としての「僕」は別人になっていることが語られます。「僕は数多くの中国に関する本を読んだ」そうです。30歳を過ぎた「僕」は何かを探し、何かを求め、そして、満たされぬものを持っているのかもしれません。それは、回想の中の「僕」には存在しなかったもの、あるいは、発想であるような気がします。

 現在の「僕」は、純粋の生きていたころの「僕」を「ささやかな誇り」として大切にしていますが、それでもなお、何かを求め、何かが起こるのを待ちます。

 終わりからさかのぼった4段落以降からラストまで、冒頭の4段落で大風呂敷を広げたのと同じように、「革命家」だとか、「友よ」だとか、「中国はあまりにも遠い」だとかいう大風呂敷を広げて、「中国行きのスロウ・ボート」は終わりました。

 構造としては、「中国行きのスロウ・ボート」は、例えばテレビドラマ「おしん」の逆なのかな、と思いました。

 「おしん」は、

・おばあさんになった語り手である「おしん」(すべてを見届けて、さとっている)
・おしんの「私」の物語(現在進行形の苦悩)
・おばあさんになった語り手である「おしん」が、物語を締める。めでたし、めでたし。

 というふうになっているような気がします。

 「中国行きのスロウ・ボート」は、

・30歳を過ぎた語り手である「僕」(疑問や迷いを持っている)
・「僕」の回想の物語(苦悩はなし、「忠実な外野手」)
・30歳を過ぎて現実に「どこにも出口などない」と苦悩し、それでもなお、何かを求める。

 というふうになっていると思いました。

 ひと言で言ってしまうと、「中国行きのスロウ・ボート」は、ぜんぜん、めでたくありません。

 そのめでたくない理由は、「中国行きのスロウ・ボート」の中では語られません。社会の問題なのか、個人の問題なのか、時代の問題なのかは不明です。

 ただ、それが何であるのかは語り手が語らない以上は読者にはわかりませんが、「中国行きのスロウ・ボート」の語り手は、明確に意識しながらも、そして、小説の語り手としてわざわざ読者の前に登場しておきながら、それでもなお、意識して語らない何かを持っているのだと思いました。


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