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映画「共喰い」のあらすじと感想(ネタバレ)

2013年10月11日 竹内みちまろ 参照回数:

 青山慎治監督の映画『共喰い』のあらすじと感想です。

映画「共喰い」のあらすじ(ネタバレ)


 昭和63年(1988年)の夏休みに入ろうとする頃、17歳の誕生日を迎える遠馬(とおま)は、通学に利用している「下関駅」行きのバスから、川辺と呼ばれる戦後の開発から取り残された一帯に降り立ち、家に帰ります。道路はだだっ広いのですが、バス以外に車はほとんど走っていません。大きな川が流れています。

 遠馬は父親の円(まどか)と暮らしていますが、遠馬を生んだあと、セックスの時に女を殴る円の元を出た遠馬の母親の仁子(じんこ)は、円と遠馬が暮らす家から歩いていける場所の川のほとりで魚屋を営んでいました。仁子は空襲で片手の手首から先を失っています。特注の義手を付けて魚をさばいていました。しかし、義手がダメになりそうで、特注で作ってくれる場所も今はなく、魚屋を畳むつもりのようです。遠馬に「あんたせん?」と店を継がないかと声を掛けます。魚屋の前で鰻釣りの糸を垂れる遠馬は、「おれが父さんの鰻釣りに付き合うのも、ここなら3人いっしょにおられるけん」と怒った様に仁子に言い聞かせます。

 遠馬の家に、飲み屋で働く琴子がやってきました。円がくどいたとのこと。遠馬は、琴子から「おかえり」と声を掛けられれば「ただいま」と返し、食べ終わったら「ごちそうさん」とちゃんと口にしますが、なぜ琴子が目の周りにアザを作ってまで円といっしょにいるのか分かりません。そんな琴子は、遠馬に、「あの人、うちの体がすごくいいんだって」と笑いかけます。

 円は、異常ともいえる性欲の持ち主で、同時に、セックスの時に女を殴ると性的に興奮するという性癖の持ち主でした。円はそのことを隠そうとせず、女を殴ることは止めないと悪びれることもなく口にもします(ただ、なんとなくあきらめているような雰囲気はありました)。遠馬は、近所の千種(ちぐさ)と付き合っていましたが、円は、好色な目つきを遠馬へ向けて、「おれももう一度、若い女と(やりたい)」などと口にします。

 琴子が妊娠しました。円は琴子のひざ元に横になりながら、琴子のお腹を愛おしそうにさすり続けます。円は、妊娠中の女は殴りません。しかし、琴子は、家を出て行くことを決意します。琴子は、家を出ることを遠馬にだけ事前に話しました。

 夏祭りが来ました。大雨が降りましたが、祭に夢中の円は、はっぴを着たまま雨漏りがする家で大の字になります。そんな円へ、遠馬は、「琴子さん、帰ってこんぞ」と告げます。円の表情が変わります。「お前、知っとんたんか」とそれまでに見せたことのない顔つきと声色で尋ねます。遠馬は何も答えませんが、円は舌打ちをし、「おれの子ども、持ち逃げしやがって」と呟きながら、血走った目で、家を出て行きました。

 大雨は止まず、円は琴子を探して町中をうろつき、神社には「待ってるから」と遠馬に言い置いていた千種がいました。円が千種を力尽くで、社の中に連れ込み、中から戸に栓をしました。

映画「共喰い」の感想(ネタバレ)


 映画『共喰い』では、物語は昭和63年の出来事であると、冒頭のナレーションで特定されていました。おやっと思いました。原作小説『共喰い』(田中慎弥)にははっきりとした年代の特定はなく、原作を読んだイメージとしては、物語はもっと昔の出来事でした。昭和63年に17歳になる遠馬は、1972年11月生まれの田中慎弥さんと同じ年なのですが、田中慎弥さんは『共喰い』を自分が生きた時代というよりは、もっと昔(つまりは両親がかつて生きた時代)のつもりで書いていたような気がしたので、まず、映画の冒頭で、昭和63年と特定されたことに驚きました。

 また、街のイメージも、映画と原作では違っていました。原作の中の「川辺」はもっと泥臭くて、土臭くて、神社の森に一歩踏み込んだら、そのまま山道がどこまでも続いているような土地に感じられました。昭和63年の下関周辺の様子は分からないのですが、映画の中の「川辺」は、車がほとんど通らないのに乾いたコンクリートの道路がだだっ広く続いており、空き地の中にときおり無機質な建物が見え、住み暮らす人の生活感がなく、ゴーストタウンのような印象すら受けました。何で昭和63年と、年代を特定したのだろうと思いました。昭和63年といえば、年が明けた昭和64年(平成元年)に崩御する昭和天皇の様態が悪化し自粛ムードが広がっていた時代ですが、昭和63年という時代は、ラストシーン近くてストーリーに大きな意味を与えていました。

 映画『共喰い』は、見終わって、「血」というものを突きつけられた思いがしました。「血」は、愛情とか、思いやりとか、信頼とか、絆などという、ある意味では甘っちょろいともいえるものではなく、人間が誕生すれば宿命的に発生し、そして、何者にも否定することができない関係なのだと思い知らされました。他人である琴子は円から逃げればそれで終わりかもしれませんが、遠馬は家を出たとしても円との関係は絶対に消せません。そして、円は、他人である女は殴りますが、自分の子どもである遠馬は殴りません。

 印象に残っている場面があります。遠馬が仁子になぜ家を出るときに「おれを連れていかなかった」と聞いたとき、仁子は、お腹に円との子ども(遠馬の意識にとっては“弟”か“妹”)がいたことを聞かせます。その子は、仁子いわく「病院で掻き出してもらった」のですが、生んでしまえば遠馬のように仁子と円の子どもになってしまい、「その前に引っ掻き出したけん、あたしの子どもになったねん」と仁子は遠馬に聞かせます。

 また、琴子が家を出ることを遠馬に打ち明けた場面も心に残っています。琴子は、「どんだけ嫌なことあっても自分と自分の親のことをバカいうもんじゃないよ。そういうくらいなら、まー君も、この家を出て行くこと考えたほうがええよ」と言い聞かせます。琴子は、人間は愛情や感情で生きる以前に、「血」で存在しているのだと告げているようでした。

 そして、『共喰い』で一番心に刺さったのは、千種が円に暴行されたあとでした。遠馬は血走った目で円を「殺す」と口にします。実際に殺すだろうと思いました。千種は止めません。仁子も止めません。しかし、仁子は、目を細めて、乾いた声で、遠馬へ、「(円を殺すことは)あんたには無理よ。殴られたことなかろうかな」と告げます。告げるというよりもつぶやくような言い方でした。円と遠馬の間に流れる「血」を感じました。

 映画『共喰い』は、父子の物語、父性の物語、母性の物語、母と子の物語、死と再生の物語、終わりと始まりの物語など、いろいろな感じ方があると思いますが、なによりも「血」の物語という側面が印象に残りました。


→ 共喰い/田中慎弥あらすじと読書感想文


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