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のぼうの城/和田竜のあらすじと読書感想文

2014年5月17日 竹内みちまろ 参照回数:

のぼうの城のあらすじ


 本能寺の変の8年後となる天正18年(1590年)正月、黄金の衣服をまとった豊臣秀吉は、公家の政庁である京都の聚楽第に徳川家康以下の諸将を集め、秀吉に恭順の意を示さない関東の北条氏を討伐すると宣言します。

 発令された軍令では、東海道からは秀吉の養子・豊臣秀次の12万騎、家康の2万5千騎、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の1万5千騎が、北条氏の防衛線である箱根の山を乗り越えて、関東平野に攻め入るというもの。

 ほかにも、北陸道から前田利家・利長、上杉景勝、真田昌幸、小笠原信嶺らの3万5千騎が、中山道をへて北条の支城を落とし、相模湾は長曾我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明の水軍が封鎖。留守になる大坂城や聚楽第は毛利輝元の4万騎や九州の島津氏が軍勢を率いて上洛し、これを守るというものでした。

 一方、北条氏の当主・北条氏直と氏直の父・氏政は、度重なる秀吉の上方への呼び出しに応じていませんでした。北条氏の居城・小田原城は武田信玄や上杉謙信をも退けた名城でしたが、秀吉が攻めてきても小田原城に籠城さえしていれば、いずれ根を上げて退却していくと高を括ってしました。小田原城は、何重にも掘りをめぐらし、城内に城下町を築いた惣構えの要塞と化していました。

 しかし、秀吉が起こした軍は、関東平野に攻め入るだけでも25万騎という未曽有の規模。箱根の山をはじめとする北条氏の支城はまたたく間に落城していきます。秀吉は、米20万石(約3トン)を駿河国に送り、小田原攻めに参加する諸将にふんだんに配ります。小田原城を取り囲む陣には市が立ち、大名が妻を呼び寄せるほどの賑わい。相模湾は秀吉の水軍が埋め尽くします。小田原城内では、“天下人”である秀吉の力に度肝を抜かれ、疑心が暗記を生じ、籠城は日に日に、内側から崩れていきました。

 北条氏は、秀吉の討伐軍出陣の報を受けると、配下にある大名や豪族たちに小田原に集結して籠城するよう招集をかけていました。

 武州の忍城(おしじょう・現在の埼玉県行田市)の成田氏長にも招集がかかりました。氏長は手勢1千騎のうち自ら500騎を引き連れ、500騎を忍城に残して、小田原城へ入りました。氏長は忍城出発の際、成田軍の主力となる家老の正木丹波、柴崎和泉守、酒巻靱負(ゆきえ)らを忍城に残しました。氏長は、秀吉に内通の意を密かに伝えていたのでした。

 秀吉は、出陣にあたり、子飼いの石田三成に上州の館林城と忍城を落とすよう命じ、「石田治部少輔に武勇ありと示せ」と直接、三成に激を飛ばします。

 総大将となった三成は、大谷吉継や長束正家らを配下に入れ、館林城を一蹴します。館林城の降兵も加えた2万3千の大軍で、忍城に押し寄せました。

 忍城では、氏長の叔父で75歳になる成田泰季が城代を務めていました。泰季は、降伏に傾く家臣らを前にして、「それでも天下に名を轟かせた坂東武者の端くれか」と激高しますが、氏長が内通していることを悟り、病床から降伏を承諾します。

 和戦のいずれかを質す三成の軍使として長束正家が忍城に入城しました。上座には床を立てない泰季に代わり、泰季の嫡子の成田長親が座りました。長親は、農民からも、「でくのぼう」からとった「のぼう様」と面と向かって呼ばれるという“役たたず”でしたが、長親は不思議と人を引きつけるものを持っていました。

 長束正家は、強者には弱腰で、弱者には容赦がないという人物。軍使として忍城に入った正家は、成田家の一同を前に、傲慢な態度で、降るなら所領は安堵するが、戦うというならひねりつぶすと告げます。そして、成田家当主・氏長の娘で他国にまで美しさが知れ渡っていた18歳の甲斐姫を秀吉の側室に差し出せと要求しました。

 成田家の者たちは怒りに体を震わせますが、どうすることもできません。留守居の成田家では、すでに開城と決していました。

 しかし、ここでただ一人、長親が声を発します。「腹は決めておらなんだが、今決めた」「戦いまする」と言い放ちました。

 長親は「二万の兵で押し寄せ、さんざんに脅しをかけた挙句、和戦のいずれかと問うなどと申す。そのくせ降るに決まっておりとたかを括ってる。そんな者に降るのはいやじゃ」「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」「それが世の習いと申すなら、このわしは許さん」と叫びます。

 長親の叫びが、親が討たれれば子は親の屍を乗り越えて攻め寄せるといわれた坂東武者の魂を呼び覚まします。

 ここに、500騎で2万3千の大軍の総攻撃を跳ね除け、小田原城が落城するまでただ一つ、籠城して持ちこたえた忍城の戦いが始まりました。

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のぼうの城の読書感想文(ネタバレ)


 「のぼうの城」は面白くて一気に読んでしまいました。長親の人物像や、甲斐姫への思いや、なぜ、戦いが終わった後すんなりと甲斐姫を側室に差し出すことを承知したのかなど、読み終えて色々と考えました。

 ただ、色々と書くときりがないので、今回は、本作で描かれていた石田三成について感じたことをメモしておきたいと思います。

 石田三成は、秀吉が中国の毛利を攻めていた際、名将といわれた清水宗治が籠もる備中高松城の城攻めに参加していました。秀吉は水攻めを用い、秀吉の指示で堤防が爆破され、ため池から水が城下へ流れ込みます。高松城が、本丸を残して水没しました。

 堤防を爆破した瞬間、三成は人工堤の上にいて、見渡す限りの光景が一変する様を目の当たりにしました。織田信長をはばかることなく、大谷吉継に「殿は天下をお取りなさるぞ」と叫びます。そして、「俺もこんな壮大かつ豪気な戦がしてみたい」と身を震わせました。

 三成は、人間や人生、あるいは人間の心というものへの興味に駆り立てられた探究者なのだと思いました。

 三成は、人から自分がどう思われるのかや、自分の心が他人に伝わるのかなどにはまったく興味がなく、ただ、純粋に、自分の心の中に浮かんだ情熱や衝動だけを自分独りで見ていたのかもしれないと思いました。有能で秀吉から信頼されていた三成は、出世という意味では、秀吉のために働くだけで勝手にしていったのかもしれませんが、そもそも三成は、出世というものにはあまり興味がなかったのではとすら思えました。

 三成が高松城の水攻めの際に感じた興奮は、これはもう、言葉では説明することはできず、その光景を見た者にしかわからないと思います。三成は、自分の目でそれを見て、そして、自分もこんな戦いがしてみたいと感じました。三成がそう感じた理由も、名を上げたいからとか、いち目置かれたいからなどという利害的なものや、相対的なものではなく、純粋に「自分もこんな戦いがしてみたい」と感じたからだと思います。

 秀吉は、三成に武功を立てさせてやりたいという親心を持っていましたが、三成自身はなんとしても武功を立てたいとは思っていなかったと思います。実際、加藤清正や福島正則などから陰口をいわれても気にせず、逆に陰口をいう連中を小ばかにしていたところもありました。三成の中には、自分が感じる興奮に対する興味しかなく、それを確かめてみたいという情熱しかなかったと思います。そういった興奮や情熱を感じることができない人間などに用はないと考えていました。

 三成は、忍城を包囲した後、わざと尊大な長束正家を軍使に送り、敵が本物であることを確認して、ひとり満足していました。盟友の大谷吉継ですら、あとになって三成の心を知るほど、三成は他者から自分がどう理解されるのかに興味を持っていなかったようです。

 三成は、悪くいえば自分にしか興味がない人間ですが、三成が求めたものは、ある意味で、未知なるものへのロマンであり、純粋な好奇心だと思います。三成は、人からどう思われるのかという発想で行動する人間たちとは違う思想で生きているのだと思いました。

 また、籠城戦が始まってからの三成の姿もよかったです。

 長親が船で田楽を舞えばその意図を知りたがり、崩れるはずがないと確信していた堤防が崩れればなぜ崩れたのかを知りたがります。三成が行っていたのは、天下統一のための戦いではなく、未知なる領域に踏み込んで現実世界の中で展開される知性ゲームだとすら思えました。

 三成は愚か者を愚か者と切り捨てる一方で、自分が感動した相手や認めた相手には素直に敬意を表していました。それは、処世術というレベルではなく、ただただ、三成が純粋だからだと思います。

 三成は、初めて昆虫を見た子どもみたいに、人間というものを見て、そして、自分の心の中に湧き上がる感情というものと、向き合っていたのではないかと思いました。

 そんな三成は、純粋さからはかけ離れていた徳川家康から徹底的に利用されて悪者に仕立て上げられてしまうのですが、三成の純粋さを愛した者も少なくはなかったのではないかと思いました。


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