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沈黙/遠藤周作:あらすじ&書評「奇跡なきこの世界で我々が考えうること」

2018年2月7日 0時30分 参照回数:

沈黙/遠藤周作のあらすじ


 舞台は17世紀、ポルトガルに舞い込んだ知らせがすべてのはじまりとなる。日本に宣教師として渡り、20年布教活動を行ってきた司祭クリストヴァン・フェレイラが棄教したという。強い信念と信仰により尊敬を集めていたフェレイラのこの裏切りともいえる行動に若き司祭セバスチァン・ロドリゴは大きなショックを受け、1638年3月25日、ロドリゴは修道院時代からの仲間である司祭ガルペ、マルタを連れ立って「サンタ・イザベル号」で日本を目指した。

 こうしたまえがきのあと、以降はロドリゴからの書簡という形で語られる。

 途中立ち寄ったマカオにて、一行は漂流の末に流れ着いた日本人キチジローと出会う。かれはザビエルの記録から伝え聞いていた忍耐強く気高いという日本人像とはまるで似ていない弱くて卑怯な男だったが、日本へ帰ることを希望するかれは自分を連れていけば日本到着後の案内をするという。そんななか司祭のひとりマルタがマラリアに倒れ、衰弱の結果帰らぬ人となる。上司であるヴァリニャーノは日本へ行くのは危険だと反対したが、ロドリゴとガルペはそれを押し切り、キチジローを連れて日本へと向かう。

 到着したのは6月の梅雨時期だった。

 実は切支丹であったが生き延びるために棄教した経験があるキチジローの案内もあり、ふたりはトモギ村という切支丹の部落の山奥に潜伏する。役所の取り締まりがいつ来てもおかしくなかった状態だったが、パードレと信者たちに慕われながら、どこかその危険が非現実的なものに思える生活をかれらは送っていた。ロドリゴは五島へのパードレとしての訪問も経験し、なにもかもが順調に思えたが、ついにトモギ村が役人に襲われる。

 村から三人の長崎出頭を命じられる。罠であることは明白であり、村に災いをもたらしたよそ者としてキチジローに白羽の矢が立ち、そこへ気高い二人の信者モキチとイチゾウが手を挙げ、三人は長崎へ向かう。ロドリゴは三人に踏み絵を踏んでもいいといったが、役所は踏み絵だけでなくかれらが特に強く信仰する聖母に対して淫売と罵り唾を吐きつけることを要求する。生き延びるために再度背教を試みたキチジローと違い、モキチとイチゾウは頑なにこれを拒否し、拷問の末に殉教する。

 これを機にロドリゴとガルペはそれまで拠点としていた小屋を捨て、二手に分かれて逃亡する。ひとり山中をさまようなか、ロドリゴはキチジローと出会うも、彼の裏切りにあい捕縛されてしまう。

 ここから物語はロドリゴの書簡という形式から、三人称による語りになる。

 捕まったロドリゴはついにかつて切支丹でありながら現在は切支丹を取り締まる側となり、フェレイラを棄教させた張本人でもあるイノウエと対面する。イノウエは宣教師たちが日本に来て布教すればするほど日本人に迷惑がかかっているという。その後、ロドリゴは、かつて自身のもとにいた信者たちと共に牢屋に入れられるも、そこで日本に来てはじめて、信仰について考え、信者に求められることでみずからが日本人の役に立つ行為を行えていると自覚するが、しかし信者は無残にも殺されていく。

 そんななか、彼は同じく捕らえられたガルペと引き合わされる。ガルペのほか三人の信者が縄につながれており、彼らは小舟に乗せられ沖へと流される。ガルペは叫び声を上げながら海へと飛び込むが波に飲まれ消えていき、信者たちもみな海へと沈められてしまうのをロドリゴは見た。

 そしてついに棄教した司祭フェレイラとの対面も果たす。まさにフェレイラの跡を辿るっているロドリゴは自身の弱みを次々と指摘され、自分が英雄的な司祭であろうとするほど日本の信者たちが死んでいく現実を突きつけられる。そして牢屋で拷問に呻く信者たちの声を聞きながら、ついにロドリゴは踏絵に足を乗せる。

 ロドリゴは監視付きで日本で終生生きることとなり、女房と岡田三右衛門という名前が与えられた。

沈黙/遠藤周作の書評「奇跡なきこの世界で我々が考えうること」


 信仰を持たず現代の日本を生きる私が本作を読んで想起したのは、イスラム国による人質事件だった。国際的な取り決めにより、国家はテロリストの要求を一切飲まないことになっているが、しかし人質になったひとやその家族の心中というのは我々にとって「計り知れない」という言葉も生ぬるいほどに壮絶なものだろう。捕らえられた人間が助かる方法は一応のかたちで提示されているけれども、事実上、それは決してなされることはない。無情の沈黙だけがそこにある。

 本作『沈黙』はみずからも洗礼を受けた遠藤周作によって書かれたがゆえに、その衝撃も大きい。背教行為をしてもなお神を信じ続けた司祭の人生にはたして救いはあったのだろうか。目に見える事象として、かれの物語には「奇跡」が起こらない。それを本作では「神の沈黙」と呼び、根幹となる思想となっている。

 ナチスの強制収容所を経験した精神科医で心理学者でもあるヴィクトール・フランクルは著書『夜と霧』のなかで、極限状態における人間の実存について、どんな身体的苦痛が与えられても精神の自由さえ守りきれば人間として生き続けられるというようなことを記したが、遠藤周作が『沈黙』で描いたのもまさにそれだ。フェレイラとロドリゴは教会という形式による信仰でなく、あくまでここにある現実に即した自身の正義を選んだ。形式的には背教行為にはなるが、かれらはみずからの信仰を歪ませたのでなく、極限状態のなかでみずからの信仰を作り出したとも考えられる。

 しかしながら、だからといって形式が「くだらないもの」として軽んじられるべきかともいかないのも事実である。多くの熱心な人間により強く守られて来たからこそ今日の社会があり、文化がある。こうした形式がもたらす強固さは、理不尽な瞬間的な暴力にも耐えうるほどに頑丈であり、私たちの幸福な生活を確保しているものでもあり、だからこそ「奇跡」なくとも生きていける。

 しかし「多くの人間の幸福」と「すべての人間の幸福」には大きな隔たりがある。この隔たりを埋めるものが「奇跡」だとしたら、この世界を生きる我々はおそらくそんな甘美な理想主義を語ってなどいられない。神が永遠の沈黙を決め込む奇跡なきこの世では、その隔たりについての思考し続けなければならない。

【この記事の著者:まちゃひこ】
文芸作品やアニメのレビューを中心に行うフリーライター。文系一直線かとよく勘違いされるが、実は大学院で物理とかを研究していた理系。その他にも創作プロジェクト「大滝瓶太」を主宰し、小説の創作や翻訳を行っている。電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より短篇集『コロニアルタイム』を2017年に発表。
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